ジャン=リュック・ゴダールの世界 No.13

ジャン=リュック・ゴダールの世界 No.13

”つまり差し伸べられた手であり”

 

・暗闇のなかではこの「手」は見えない。感覚はあるけれど、それは「手」が指示する感覚であるとする保証はない。このことは哲学問題を構成してきた。あなたの「手」はほんとうに<存在する>のか?と、暗闇の中で目の前に現れた他者から問われるとき、自失茫然としてしまう。このとき思わず手を見て確かめてみるぐらいならばなにもかも疑っているということであり、言い換えれば、この世界になにひとつ確かなことはないとまで疑っているということである。このときはじめて、客観世界の側にある経験的肉体の「手」を超えて、人類が定位できるような理念としての「手」のもとにやってこれるのだろうかが問題となってくる。いかにこの「手」を持つのか、「理念」を獲得できるのだろうか。ここで、ふたつの映像のあいだで、「複数形で書かれる映画史」とはなにか、と、ゴダールは問う。映画史というのは、どの映画がどの映画の前だったのか、あるいは後だったのかということを年代順に整理すればいいというのか?映画の歴史にもし決定的な唯一の映画...を欠いているとすれば、はじめからそもそもそんな年代順の実証を語る価値があるのか。ゴダールにとって、「収容所」を撮った映画が存在しなかった映画の歴史はまさに語るに値しない失敗の歴史だったのである。映画は、時代と国家の欲望世界が自らに都合よく置き換えた投射に従属してしまいそれだけでなく「嘘」と「沈黙」によってファシズムの戦争協力に身を委ねた。だれもこの歴史を隠蔽することは許されない。それでもなお語る価値があるとすれば、映画の歴史についてなにを語るべきなのか?別の映画史で語ること、しかし映画の問題ー時代と国と対等なものになれなかったこと-を解決するためには、再び映画に依ることは不可能ではないか?映画とは別の場所から映画史から逸脱する方法論をもって語る可能性がないのか?この倫理的問いかけから、ゴダールは自らを実証的な映画史に自己限定することをやめたのである。方法論的に「映画は思考手段である」という過剰な言い方に、不確実性についての哲学問題を導入することによって映画史を思考の歴史として開こうという、ー絶えず底なしの懐疑と勝算もないという絶望に押し返されるけれどもーゴダールが構成する映画問題をみることができる。

自動代替テキストはありません。