ジャン=リュック・ゴダールの世界 No.15

ジャン=リュック・ゴダールの世界 No.15

”映画は私たちの眼差しを私たちの欲望にかなう世界に置きかえる”

・映画は時代と国と対等なものになれなかった。No.13で述べたように、ゴダールにとって、「収容所」を撮った映画が存在しなかった映画の歴史は失敗の歴史だった。だがゴダールは、映像が存在しないならば、現存している映画の断片ー必ずしもアウシュビッツを描いているものではない映像だけでなく全く無関係の映像を含めたーを選んで、それらのイメージを編集することによって「収容所」を呈示できるのだと考えたのである(その場合、救済も描かれなくてはならない)。自立的で無関係な系列は、差異化と偶然と生成として、構造のうちにとらわれて教条主義化した問題を開いていく。こうして編集の自由は批評の自由として、"映画は私たちの眼差しを私たちの欲望にかなう世界に置きかえる”のである。ゴダールアウシュビッツを批判するためにアウシュビッツを発明していくのである。(ゴダール方法論の妥当性をめぐってワイズマンとの間で論争が起きた。イメージ過剰のカトリックゴダール’と偶像禁止のユダヤ教’ワイズマン’の対立と揶揄された。)ヒトラーこそは隠蔽するために映画を最大限に利用した。ナチズムの「政治の美学化」による支配の全体構造という映画が推進した置き換えの問題を解決するために、再び映画の置き換える編集の力に委ねることは倫理的に不可能ではないか?編集の力をいう「映画史」はだれもが果たせなかった大きな使命を担って、しかし最初から大きなパラドックスを抱えて進行していくのである。