小林秀雄を考える

高校生のとき以来、疑問をもっている。この人は思想家なのだろうか?日本思想の中心にいた講座派系の羽仁とか(講座派を包摂する)丸山の、あの客観的な語りはこの人の思想に存在しない。どうしてこのこの人は作家の語り口で登場人物の一人としてパスカルを語るのだろうかと本当に不思議だった。この人は文学者なのだろうか?パスカルはこう考えたと言いながら自分が考えたことを語っている。「X氏への手紙」だって自分に充てた手紙だと気がつくのにそれほど時間を要しなかった。「本居宣長」(1977年)においても、「宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。」というとき、それは、宣長はこう考えたと言いながら、宣長の体験を追体験していく文学者の内在的な読み方である。「私小説論」は、文学に現れたる思想を問うという内容よりも、なんというか、考える習慣というものが私をとらえた。自覚的に自己自身とともに生きるという習慣、パスカルであれ宣長であれ、通常思考活動と呼んでいるあの自己と自己自身との闇の無言の対話を常にしているという習慣であろうか。パスカルとか宣長の固有名を書くかぎり、思想家ほどには理念性に至らなくとも、少なくとも自立的に考える孤独の位置を保って他のすべての人々の立場に身を置くという責任があるのかもしれない。兎に角、日中戦争を最初に気がついた人は、ほかならない、小林秀雄である。小林の前に日中戦争に気がついた人は一人もいなかったのである。なぜか?心が敏感だったからか?この仮説は一考の価値がある、いまの時代にあって。彼はいう。「僕等は、そういう事件の新しさに対してどうしても平静な心でいられない。めいめいが不安を感じている次第だが、それもただ不安を感じているだけではない、不安でいるのは堪らぬから、どうかして早く不安から逃れようとする。新しい事件を古く解釈して安心しようとする。これは僕等がみんな知らず知らずのうちにやっている処であります。事件の驚くべき新しさというものの正体に眼を据えるのが恐いのである。それを見詰めるのが不安で堪らぬのであります。それであるから、出来る事なら、古い知識なり経験なりで、新しい事件を解釈して安心したい。」

 

参考;加藤周一「日本文学史序説」(上は1975、下は1980)より

▼「マルクス自身は、その高度に抽象的で包括的な体系を外から借りてきたのではないとすれば、マルクス主義そのものに対する小林の意見は、どういうものであったか。小林は、論理実証主義者がしたようにマルクス主義の論理的構造を内在的に批判したのではなかった。ま...たポッパーがしたように社会科学としてのマルクス主義に別の社会科学的方法を対立させようとしたのでもなかった。そうではなくて、一般に抽象的な概念の体系に具体的な生活感覚(かれはそれを「常識」と呼んだ)を対置し、社会科学の代わりに美学を採ったのである。その美学は、彼の場合には、いかに生くべきかという問いへの答えでもあった。それは知的同時に感覚的な人格の全体に係り、特定の瞬間における一回限りの内的経験に集中的にあらわれ(主観性)、歴史的時間を超越しようとする(非歴史性)。「私は宣長の思想の形体、或いは構造を描き出そうとは思はない。実際に存在したのは、自分はこのやうに考へるといふ、宣長の肉声だけである」(「本居宣長」その二)。ここでいふ「肉声」とは「生きた個性の持続性」(同上)であり、要するに宣長の「心」である。その「心」はまたはるかに石田梅岩の「心」にも近いだろう。「神儒仏トモ二悟ル心ハ一ナリ」(「都ㇶ問答」巻之三、「性理問答ノ段」)といったときに、梅岩にまた、神儒仏の「思想の形体、或いは構造」の差は、二次的なものにすぎず、彼にとって重要なのは、それらの外在的体系にたいする内面的な「心」の反応である、といおうとしていたのである。かくして小林はマルクス主義の客観的歴史主義に対し、主観的で超歴史的な「心」の内的経験を対立させた。彼のそういう立場は、モーツアルトについて、美しく正確に語ることを可能にしたと同時に、日本の中国侵略戦争について、冷静に客観的に語ることを不可能にした。人生の一回性を歴史的過程に還元することができないように、歴史を歴史家の心に還元することもできない。

▼「芸術または学問と生活を併せて説き、小林の最大の著作となったのは、「本居宣長」である。その考えの特徴(殊に歴史に対する考え方のそれ)は、そこに要約されている。すなわち宣長の「心」を説いて、そこの古代信仰があり、その信仰が宣長を推して古代文献学へ赴かせた動機を活き活きと描く。詩人小林秀雄の感受性がなければ、その洞察と叙述は成り立たなかったであろう。しかしその文献学の実証的方法の由来を説明して、明瞭でなく、殊に宣長における神話と歴史、「言」と「事」との混同を弁護して、明瞭でない。歴史家の「心」のなかで「言」はすなわち「事」であるとしても、そのことは、必ずしも歴史家の外の世界で、「言」と「事」とが一致することを意味しないだろう。そのとき「心」の内面性を、歴史的世界の外面性へつなぐために、多数の「心」をもちだすのは解決ではない。「国民の大多数の生活のうちに生きている歴史」ーしかし「古事記」の時代に「国民」というものはなかった。」

 
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