問題提起;21世紀のアジアの現在アートは、不可避の他者としての漢字の理念性にたつことができるのではないか。漢字論を利用することはできる。それはなにか?

問題提起;21世紀のアジアの現在アートは、不可避の他者としての漢字の理念性にたつことができるのではないか。漢字論を利用することはできる。それはなにか?

 

思考可能なものと思考不可能なものとはたがいに分割できないが、二つの間には百兆光年ぐらいの距離が横たわっている。思考可能なものは、この距離をこえることができないので、思考できないものの上を占拠することはできない。これを文学に沿って考えてみようとしたらどういうことになろうか?たとえば、宣長の研究とは「大和ことば」をどう読みだすのかという研究であった。「神」(シン)は、宣長の読みによると、’カミ’であった。「天」は’アメ’と読めるがその意味はわからないという。「天地は、阿米都知(アメツチ)の漢字にして、天は阿米(アメ)なり、かくて阿米(アメ)てふ名義(ナノココロ)は、未ダ思ㇶ得ず。」という(古事記伝三之巻)。「天地」は漢語であるが、そもそもこの漢語がなければ、漢語を前提にしなければ。神話的な記述ははじまらないのである!原初的テクストは存在する。原初的テクストついて最初に言わなければならないことは読むことができないということである。ここから、言説によって思考可能なもの(’天地’という漢語、書かれる言葉)と、思考不可能なもの(’アメ’という読み方)の間の距離が生じる。しかしながら思考可能なものと思考不可能なものとはたがいに分割されずに同時に成り立つ。テクストにおける内部的なものを、言語的、思想的な統一性において読み出して、距離を消し去ってしまう必要がないのである。無限の距離のことを考える自由があるが、ここに思想革命が起き、ここからアートのあり方が問われてくるのではないか。それに対して、思考可能なものが思考不可能なものを覆うと、思考可能なものの内部に組織化された空白が生じる。近代においてこの空白は、くりかえし通過されていく真理の折り目。思想の内部から内部に即してその思想を読む理念性。(このあらかじめ理念性が「実体化」していた)経験的「多様性」の領域から、理念の領域を指示するこちら側に繰り返し戻ってくるという先験性の高慢というか。たとえば近代の音声優位主義のパラダイムは日本語を漢字から切り離すことから成り立つだろう。この音声優位主義の近代を脱構築する企てとして、言葉を漢字から切り離さずに、むしろ漢字を不可避の他者としてとらえよう。不可避の他者とは、仁斎がいう不可避の「日常卑近」であろうが、われわれが生きてきた漢字文化圏の東アジアの言語に時枝誠記がアプローチしたときはじめて現れることになったその思想は何であったか?改めて「漢字論」を読む必要を感じている。

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