論語の世界 No.13

論語の世界 No.13

 

もし言説家の孔子が今日生きていたら、自分の思想をどれくらい多くの人が理解してくれるかを気にかけただろうね。言説家であるからどうしてもそれは気になること。だが売れる本が良い本であるとかんがえたかはわからない。読む人の欲求とそれに迎合した自分の考えを、孔子ちゃんに言わせている、腹話術的手法のわかりやすいマーケット「論語」本は、反知性主義の極みにみえる。読む人の欲求を満たすものが、思想に結びつく何かとして書かれているというわけではない。ところで安倍の応援団の方は、反知性主義という言葉で非難されるが、どちらかというと、反道徳主義に思われる。自民党改憲案にあるようにヨーロッパの市民道徳の方向性をトータルに否定するという意味で。ここであらためて戦前のことを考えると、「近代の超克」論者はヨーロッパの市民道徳を理解していたのは、彼らの殆どが左翼だったと思われるからだが(廣松が言うようには世界史のイデオログは右翼ではなかった。検討を要する)、ただアジア主義の発言者とって、ヨーロッパの近代にともなう植民地主義を拒否することが問題となってくる。はっきり言ってしまうと、現実に日本からアジアにもたらされたものは植民地主義であったが、(傲慢にみえても) アジアのためにアジアの人々にかわって考えるとした、非常に短い期間ではあったが、アジアに対する共感をもった思想家の言葉はその全部が嘘ではなかっただろう。だが「美しい日本」をいう歴史修正主義者のどの言葉も真があるだろうか。彼らの言葉は「誠」も「実」もなく、戦前を継承すると言うがアジアに対する共感も全くもたないように読める。歴史修正主義にたいして、あるいは世界史の「帝国」にたいして、「日常卑近」のアジアでいかに人類知、人間知を自立的に作り出すのか、その思考は仁斎論語からはじまっているのではないか。近代主義もその思想的産物のナショナリズムも完成しないことが明らかにされたならば、もう国家の近代とナショナリズムに戻るとか、それらを立て直す必要はないと理解されることになるのであろうが...