論語の世界 No.15

論語の世界 No.15

「顔淵問為邦」(衛霊公第十五第十章)はいかに読むか?

岩波文庫の金谷訳は、「顔淵が国の治めかたをおたずねした。」とある。ついでに英訳、仏訳をみると、金谷の現代語訳と同じ意味で、顔淵の問いが国の統治、治世を問うものと理解されているようだ。Yan Yuan asked about how to order the state.Yan Hui demanda comment gouverner un État. しかしこの顔淵の問いの性格が、国の統治、治世を問うものとは異なることを伊藤仁斎は正しく察した。「邦を為す」とは国を創為する意。国の紀綱法度を創造することをいう。顔淵の問いは、「冢宰(ちょうさい)、邦治を掌り、以て王を佐く。邦国を均しくす」といわれる国家創建についての問いだったのである。つまりどういう理念をもって国家をつくったらいいかを問うている。つまり国家を国家として形成するということはどういうことかという国家の理念が問われていたのである。子安氏の訳を参考にしながら読むと、ここでの孔子の古代国家のあり方に言及した言葉を解釈した仁斎の考えは、民に迷惑をかけるな!に集約されている。民のために国家をつくること、それは民のために時をつくることと同じ意味をもつことである。なんという言葉の力だろうか。漢字というのはおおげさになってしまうのか。だが話し言葉の安易な現代語訳に依存することを許さない、漢字の書かれた言葉によってこそ、「草枕」の夏目漱石の高さに誘われるというものだ。このエクリチュールと思考の高さから、(私の理解だけれど)、経験知も理念もない国家とは現在の緊縮財政を自己目的化しているネオリベ国家の理性ことではないかときがつく。民に迷惑をかけていると自覚しない邦で、民は生活できないのである。