ジェイムス・ジョイスの世界 No. 15

ジェイムス・ジョイスの世界 No. 15

「公」の英語のほかに、隠蔽されている色々な種類の英語がある。言葉の意味を書いてある辞書なんかむしろ存在しないほうが普通と考えた方がいい。ダブリンに行って初めてそのことを知った。だから単語をどう発音するかはそれを使う現地の話者から直に学ぶしかないわけだが、問題となってくるのは、役所や学校での「公」に使うことが事実上許されない自分たちの「劣った」英語を恥ずかしがるという問題である。「劣った」言葉なんか存在しないのに、「恥ずかしい」と思わせていた罪深い植民地主義の痕跡がここにある。アイルランド語シェークスピア時代の英語、イギリス地方言語の影響を受けて発展したであろうとされる、彼らがもっている、話し言葉の英語にこそ、豊かな多様性があるのに。しかし話し言葉に投射されるのが、知識人の文字なき社会にたいする危ないロマン主義ユートピアである。彼らは問うてきたのである。達成されなかったホンモノの近代の完成を誰が担うのか?それは話し言葉に生きると想定された、純化された民衆がになうのである、と。19世紀・20世紀に再建されたゲール語ナショナリズムをめぐって挿話’テレマコス’(ジョイス「ユリシーズ」)で激しい議論が展開される。これについて私の疑問とはこういうものである。民衆はいかに「完全」を認識するのか?そもそも書かれた言葉を排したところで、話し言葉だけで完全に考えることができるのだろうか?この問いは、その出発から、「完全」という書かれた言葉の体制にどうしようもなく不可避的に依存しているではないか...。