ジャン=リュック・ゴダールの世界 No.27

ジャン=リュック・ゴダールの世界 No.27

”思考する者いれば、行動する者もいるというが、真の人間の条件とは、手で考えることだ。”

・映像が観念に先行する。街頭の映像とともに、ド二・ド・ルージュモン「手で考える」(1936)の言葉が引かれる。「手で考える」という場合の「手」で意味されるのは何か?それは神秘的に考えるということではない。ゴダールと一緒に仁斎論語を読んでいるからかもしれないが、ゴダールがいう「手」は「卑近」(日常の人の道)をあらわすとおもう。「手」=「卑近」とは、対他的というか、他者への方向性をもつというか、そうして理解してこそ、「映画史」において「手」が理念化されるのだろう。さて映画の歴史はゴダールにとって思考の歴史をなす。思想と思想史に言及すると、カント的に人において成り立つ理念性(諸理念)を、人と物において成り立つ形で思弁的に・自然哲学的に再構成したのがドゥルーズの「近傍」的空間概念であった。カントの理念性を思弁的に再構成したヘーゲルの場合とは異なり、68年以降のドゥルーズなどのポスト構造主義の思想においては、全体性から逃走し逸脱する、諸々の理念の間にひかれる生成する偶然の線について語られていくことになった。しかしこの生成する偶然の線は、ネオリベグローバリズムと世界資本主義の分割としての帝国の言説によって再包摂されてしまうのである。このことをふまえて、思想史的事件として80年代後半から90年代の「映画史」をとらえるとき、ゴダールの課題はいかに、「日々ますます過酷に、地球全体へと、機械的にあてがわれていくような、今日の全体主義」に抵抗する生成する偶然の線をふたたびあたらしく作り出すかということにあったとわたしは理解している。問題となってくるのは、新しい思想を映画に書くことができるかという倫理的問題だったのである

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