漢字論とはなにか No. 2

漢字を受容した時代の約千年後、17世紀の京都からは、12、13世紀原書の漢字と、漢字仮名交じり文で考えながら、東アジアの知のために、中国文明と対等な思想、朱子学批判の漢字テクストを書いた儒者たちがあらわれました。例えば、「童子問」がそういう本だとおもうのですね。「漢字はもはや借り物ではない」と言わざるを得ないそういう次元で思想をつくりだしたとおもいます。外部性をその由来からもつ漢字、この他者の言語をいかに自分のものにしていくか、ここから、自立的に成熟した思考を獲得できるかということは、最低1000年要するような事柄なのですね。さてこの時代のことを考えますと、「日本書記」で国家のアイデンティティーを公に書いた背景に、国際情勢の変化の中でなんとしてでも独立国家を作り出さなければならぬという政治的・軍事的な理由があったのでしょうか。このとき、「日本書記」は中国知識人と朝鮮知識人と(かれらが育てた)日本知識人の共同作業だった可能性があります。いくら日本デビューといっても、先行する1000年の高度な文明が中国にありました。日本知識人たちはその他者の言葉ではじめて考えることができたと断定してしまいますがそういってもそれほど間違いではないだろうと思います。大胆にいってしまうと、これは、その<前>は、話し言葉によるだけでは一度もトータルに考えることがなかったという意味でもあります。「否、純粋な話し言葉が、純粋に思考できる言葉として存在していたにだよ」という反論がくるでしょう。いわゆる「やまとことば」の存在ですね。しかし書かれる言葉(漢字)を排除しきった前提で、もっぱら話し言葉だけで概念を考えることができるものでしょうか?私は自分の海外にいた経験からいって大いに疑問です。もし、現在のわれわれが「やまとことば」を持てと強制されるとしても、それで概念を考えることができないとしたら、やはり生活に役に立たないという理由でそれを棄てるでありましょう。あるいは自然に消滅してしまったことになります。 ナショナリストの問題は、古代の人間を高いところに置かずしては古代との連続性を指示できない態度にあると思います。だが言語との関係において古代人と現代人のあいだにそれほど大きな隔たりがあったのでしょうか。私は仁斎の日常卑近の思想の尺度にしたがって考えてみます。憎んでいるものを愛するふりをする者がいつの時代にもいますが、国からその使用を強制されるだけで、民から自発的に愛されないような言葉は長く存続できないことは現在も古代も違いがないと考えてみることはできないでしょうか。消滅に関する事情が「やまとことば」にもあてはまるでしょう。古代日本においてだけ例外ということにはならないとおもいます。 だから、「日本書記」、「古事記」という書かれた言葉で批判的に考えられたことを考えていくしかないじゃありませんか、批判精神をもって書記的に考えよう、と、これが私の構成であります。ところで日本の近代化とは、翻訳等で近世に負いながら近世との連続性をバッサリ断ち切ってしまいます。デカルト的な考える人間を中心にする近代のもとで、書かれる言葉(漢字)とのトータルな関係が無傷のままにあるということはありえません。近代ヨーロッパ語も近代日本語も、近代の<考える>人間を中心におきながら、書かれる言葉(ラテン語と漢字)を排除しきった前提で、話し言葉を捉えることがほんとうにできるのでしょうか?話し言葉だけでは人間は<考える>ことができないというのにですよ。このパラドックスを解決するために、漢字を日本語の記載主体の表現機能において捉えようというわけです。ヨーロッパの音声優位主義の言説から自立するだけでなく、思想的には、「漢字はもはや借り物ではない」と理念的に構成することなのです。ところが、「漢字は借り物である」とする日本語の問題を解決するために、再び、それを推進した日本語の固有性の構造に依拠することはおかしいですね、ゆるされないはずです。問題となってくるのは、国の立場から防御的に、国語学の新しい対象となった漢字を再びただの共同体の心の声の等価物とするようでは、漢字を日本語の同一構造に包摂してしまうことなのです。日本精神分析の立場が構成する言語論的二本文化論は結局は、漢字の「不可避の他者」(子安)としての<介入>の歴史を消し去ることにしかならないこと、閉ざされた内部性の響きがきこえてくることについてよくかんがえてみる必要があるとおもいます。実際に、時枝言語学の問題はここにあったのです。(子安宣邦氏の「漢字論」(岩波書店)、漢字と「国語の事実」ー時枝言語過程の成立ー、漢字と自言語認識ー国語と日本語とー、を参考にしました。勉強中)

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