言葉と物のコンパクトな世界 No. 16

言葉と物のコンパクトな世界 No. 16

純粋な思考は内部化された声が響く場所にしか成り立たないとするのは形而上学の果てしない夢だったかもしれない。そういう場所は「起源」と表象されてきたのである。この場所に絶えず帰還するのは声である。声そのものが起源だからである。他方でこの場所から追放されるのは、(声の代理でしかないという意味で不純物である)書かれる言葉であろう。(書かれる言葉はどこに亡命するのか、それは別の機会に探求してみたい。) さて近代の言語学は、形而上学の解体の後に、こうした起源への措定を自覚できずにいるとき、それどころか自身の声へのこだわりの正しさを精神分析文化人類学に裏づけられるとき、再び声が響く内部の場所に絡む取られていくのである。これに対抗するために、主体の位置と機能を炸裂し開かれた意味を獲得することが課題となったとき、再びエクリチュールに依拠することで十分なのか?と、フーコはデリダにたいして自分の疑問を問わなければならなかった。これが私の理解である。実際に、時枝の言語学は、ソシュールを批判しそれを乗り越えていくような思考があっ...た。主体の位置と機能を炸裂させるのは、代理するものでも代理されるものでもない、第三項としての漢字である。語る主体すなわち言語の主体の外におかれていた漢字は言語学に介入してきたのは、ペラスケスの絵の演劇的効果を思わせる。だが新しい国語学のもちで、漢字を読むために発明された訓読の文字(助詞)がことば(内部の心の声)を指示するための手段として客体化されるとき、思考は包摂されてしまうことになった。他者への方向性をもった外部との関係性が、ナショナルな内部の自己同一性に還元されてしまったのである。今日においても、佐藤優のようなナショナリストは公に向かって、教育の現場で推進されている「話し言葉」の英語では考えることができないと憂慮しその統計的事実を指摘する中立では足りなくなるだろうと察する。グローバルな<一つ>の英語に対応して、あたかも、守るべきローカルな<一つ>の日本語の存在を指示する言説のうちに、独立している内部の純粋さへの侵略が起きていると呼びかけるとき、そこに、一国家=一言語=一民族というギリギリ危ない全体性の論理の展開をみないわけにはいかない。そこからだれが排除されるのかという問題をかんがえないわけにはいかない。これとは反対に、開かれた方向性をもつかぎり、外部から侵入されやすい多孔性の脆弱さに私は惹かれる。喝采していくナショナルな堅固なものに嫌悪を感じてしまう。