オリジナル?コピー?

ロンドンのカフェで声をかけてくる隣人から、「なぜ大英帝国は失敗し消滅したといわれるのに、世界中の人がここにやってくるのか、なぜみんなが英語を学びたいのだろうか」と聞かれたときほど当惑し不愉快になることはありません。が、繰り返されるこの嫌な質問は、どうも、単純に威張っているのではなく、自分たちがオリジナルであることの劣等感が喋っていることに段々と気がついてきたのです。さて9時間かかって東京に来ると、これが逆になるから不思議。見上げているヨーロッパを真似してきたと嘆くときと、見下している中国を真似してきたと嘆くときがあるのですが、どちらの場合も、自分たちは統一なきコピーでしかないと嘆いてばかりいますね。いつも劣等感が喋っているとは限りません。注意深くきいていると、なんとも屈折した優越感の声も僅かに響くのです。(だが、真似している他のアジア諸国と比べると、われわれはよりホンモノに近いニセモノなのだ。)自慢しているらしいのですが、顕著な植民地主義化された民が自己を制約するヒエラルキーの鎖だとは自覚することもなく、自己を高めるためには他を低めなければ気が済まないのでしょうか?これはいつ終わるのでしょうか?全員根拠のない偽物でいいじゃないかとナルシステイックに言う連中に信頼がおけません。今日彼らはホンモノを声高にいうナショナリストになっているじゃありませんか。それよりは、ホンモノは一ではない、言い換えると、普遍主義がひとつではないとする、理念としての多元主義をわたしは主張したいのです。