言葉と物のコンパクトな世界 No. 18

言葉と物のコンパクトな世界 No. 18

ゴダールパレスチナ映画とか、「ユリシーズ」が現在書かれるとしたら主人公はアラブ人だろうという文学批判とか、ヨーロッパの知識人がイスラムに言及するときは、映画・小説の作り方を云々しているのではなく、ヨーロッパのイスラームを排除して成立したアイデンティティの不可能性を問題にしていることは明らかだ。歴史的にいって、イスラムは、このイスラムを排除して成り立った西欧の近代化に同化することはありえないだろう。イスラムの近代化が、福沢諭吉の言説にみられるように日本のラデカルに過去を切断した近代化と比較すると、帝国主義が温存して利用したと説明しきれない、いわゆる前近代を残しているようにみえるのは、そこではないか。サイードはアラブ世界から西欧世界に介入してきた知識人である。「言葉と物」は、解釈知が権力を構成することを明らかにした。サィードはこのフーコの理論的仕事に負うが、西欧の知の歴史が自動機械仕掛けが作動するかの如く記述している点を批判しなければならなかった。フーコの知の言説空間にたいしては、いつだれが解釈を作ったのかという事件をみるような外部的視点を要請したのである。またそこから、ポスト構造主義デリダ)とは別に、言説の内部で自らを代表できない声の抵抗としての意義を擁護することになったことは重要だ。またそこから、ポスト構造主義デリダ)とは別に、言説の内部に囚われて自らを代表できない声がもつ抵抗としての意義を擁護することになったことは重要である。詳細に説明すべきだろうが、マルクスがいかに植民地主義の近代を推進する言説を担ったかを非難しつつ、マルクスの権力批判の言説を展開させている。

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