アートはどこで完成するのか?思想の領域において完成をみるのか?あるいは、アートは、思想に巻き込まれると同時に巻きかえしていくことによって絶えず外へ出ようとする、完成することなき、永遠に彷徨う孤独な過程そのものなのか?

 

論理哲学論考」はいきなり終わる。語りえぬことは沈黙するしかない。沈黙は倫理行為が哲学(論理)に定位できないとほのめかすように饒舌に語る。このウィットゲンシュタインの取り組みは、近代カントの問題意識を現代化したものだろうと私は考えている。問題となってくるのは、芸術と哲学との関係である。アートはどこで完成するのか?思想の領域において完成をみるのか?あるいは、アートは、思想に巻き込まれると同時に巻きかえしていくことによって絶えず外へ出ようとする、完成することなき、永遠に彷徨う孤独な過程そのものなのか?ロンドンのテートモダンで学んだウィットゲンシュタイン派のアート論は参考になった。アートはテクストに定位するが、そのテクストと私の関係が語りえぬほど貧しく単純なものとなってしまうのは、無理に、解釈を作り出す現象学的主体を、純粋な私の純粋な思考を絶対の前提とするからである。複雑になるものをなぜ単純にしようとするのか?この問題を解決する方法として、アートもそれが定位するテクストも、言語の存在と同じように、自立した主体であるとしてとらえるという発想の大転換をおこなうかにかかっているといえるかもしれない。この問題を、自分の生き方の問題として、考えていく必要性を感じた。だが、ポストコロニアリズムアイルランドのアートを発見し語ることに成功したのだろうかと考えてみようとしたこの私の探求は挫折した。アイルランドの問題を共有するようにみえる、この数年の間にみた韓国現代アートの言説をまえに、ヨーロッパから持ち越された私の疑問が息苦しく繰り返された。再び考えるために、津田左右吉がヒントとなっているが、宋代と江戸時代の漢詩宣長の歌論を読もうとしている。光が支配するヨーロッパ近代の知の時代に、(光から)暗闇の忘却の領域の方に抑圧されてしまった東アジアの知が、再び現われようとしていて私をとらえるのかもしれない。そうだとしたら、なぜいまこの時代に?曙の時代のその理由はなにか?

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