N+1番目の「論語」

  1. だれがN+1番目の「論語」を読むのか?

  2. 論語」について誰もあまり言わなかったことをここで書きますと、この原初テクストは運動です。「論語」は無限の速さと遅さをもっています。象徴的にいうと、「論語」を構成している、コンパクトによく統御されたその言葉たちは常に、彗星の如くあまりに速く過ぎ去ってしまうのです。あとに何が通過したのか分からないほどです。またこれとは反対のことを言うのですが、「論語」という原初テクストは紀元前から実におそい足取りでわれわれの現在のもとにやってきたのです。この長い道のりの過程で多くの解釈的媒介がありました。遡れば、孔子の死後すでにそれぞれの弟子たちによるそれぞれの「論語」が現れたというのですから。私の頭の中では、孔子No.1、孔子No.2...孔子No.Nという系列の存在を想像しているところです。「論語」は現在進行形の運動です。われわれは、N+1番目の「論語」を読んでいるということができるかもしれません。子安宣邦氏の「仁斎とともに読む論語塾」で、17世紀の伊藤仁斎が与えた注釈を読むことで、朱子的な本質と現象を重んじた注釈のあり方を批判的に読み直しています。原初テクストを読むことの無理を消し去らずに、かつ、反時代的にでありますが、仁斎の祖述者としての立場を継承しようとしているのです。ここで、「祖述」とは何か?仁斎はそれをこう説明します。「古えを信じ、これを述べ伝えることは、ともに古を己において作為しないことをいう」と書いています。私は祖述について三つのことを考えます。「考える」人間中心主義の解釈よりもそのまま他者を重んじるという対他的方向性、また、古えの思考のリズムが生き残る書記言語性のまとまり、そして、諸々の理念性となる概念性のことを考えます。この概念性は、思弁的なものに属するのではなく、外部に関わる倫理的行為において成り立ちます。間違いを恐れずにいうと、私の理解では、この祖述というのは、他者から与えられた言葉のうちにある書記言語で構成される古えという感化の大きな運動に身を委ねるということ、これです。このように、世界を客体とせずにむしろこれを主体としてみようという態度、もっとすすんで主客の二項対立に依存しない、生成する運動体それ自身として自覚してみようという意義は、「漢字論」のなかである時期の時枝言語学において読みだされていた意義ー漢字が思考に介入してくることをそのままにただ受け入れることーと同じではないでしょうか。「朋(とも)あり、遠方より来る。」「論語」自身が、われわれにわれわれ自身のあり方を、外部からこの原初テクストに即して、考えさせてくれる「遠方からきた友達」、われわれを自立させてくれる他者であります。

本多 敬さんの写真
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