憲法の原初をかんがえる

    • トマス・アクナスは消滅してしまう魂の問題を死滅しない存在の問題として置き換えた。が、消滅という問題は新プラトニズムの神秘主義において扱われる。身体のかたちに魂が映像化されていると想像してみると、ブルーノBrunoが考えたように、右足と左足、右手と左手、それと頭で五で、魂は<五>という数字を持っているのかもしれない。だけど身体の器官はN個あるかもしれないから、どんな数でもかまわない。身体と魂が数を介して対応関係をもっていることが大事だ。問題は、魂は身体から離れてたとき、つまり死んだときである。朱子学的な語彙でいうと、鬼神はどこに住むのか?鬼神は身体に、再び故郷に帰るように戻ろうとするかもしれないが、地中の身体は腐ってすでに消滅してしまっている。魂は仕方がない、天に向かって上昇するしかないわけだが、いずれ消滅する運命だろう。だが完全に消滅しきってしまう前に、お天道さまから光を浴びることによって究極の言葉に住むようになるという大きなチャンスがあるかもしれない。そのことで彷徨う闇を輝かせることができるかもしれないのだが、そのときなにを言うのか?それまでは究極のことが言えなかった。(窮極の言葉なき孤独は、言葉なき暴力の場合と同様に、自らの存在を、言葉でしか理解できない人間のまえにして、あらわすことができない。)魂は永遠の言葉に住んだとき、国が作り出す境界線とヒエラルキーで他者を囲い込むな!国はふたたび戦う国家として国家自身を祀るな!!と、生者に向かって人類の理念を言うことになるのではないか。そしてそれが国家の起源よりも大切な憲法の原初だったとわたしはかんがえる。

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