プルースト、フリール、平田篤胤

 

プルーストが言及しているケルトの信仰をアイリッシュの知識人は喚起しているのは、それが、ブライアン・フリール戯曲「トランスレーションズ」の理解ー言語と世界の関係ーに欠かせないからである。この点に関して、時間がかかり遅きに失したが、最近、平田篤胤の世界との関係にきがついてきた。ここではその議論を展開できない。というか正直、まだ考えはじめたばかりなので、とりあえず世界文学の比較論のように、Keypassageを三つ並べてみよう。平田については子安宣邦氏の解説を<注>に示しておいた。

 

(A)私はケルト人の信仰を、きわめて理にかなったものだと思うが、それによれば、死によって奪い去られた者の魂は、なにか人間以下の存在、たとえば動物や、植物や、または無生物のなかにとらえられている。なるほどその魂は、私たちがたまたまその木のそばを通りかかり、これを封じ込めているものを手に入れる日まで、多くの人にとってけっして訪れることのないこの日までは、私たちにとって失われたままだ。しかしその日になると、死者たちの魂は喜びに震えて私たちを呼び求め...、こちらがそれを彼らだと認めるやいなや、たちまち呪いは破れる。私たちが解放した魂は死に打ち克って、ふたたび帰ってきて私たちといっしょに生きるのである。私たちの過去についても同様だ。過去を思い出そうとつとめるのは無駄骨であり、知性のいさいの努力は空しい。過去の知性の領域外の、知性の手の届かないところで、たとえば予想もしていなかった品物のなかに(この品物の与える感覚のなかに)潜んでいる。私たちが生きているうちにこの品物に出会うか出会わないかは、それは偶然によるのである。

ーProust プルースト

 

(B)我々を形づくっているのは文字通りの過去、つまり歴史のいわゆる「事実」というものではなく、言語の中に具体的に現れた過去の姿だということだ。ジェイムズはこの区別をやめてしまったのだ。我々は言語の中にある過去の姿というものを新たに作り出すことをやめてはいけないのだ。一度やめてしまうと、我々は化石になってしまうからだ。...it is not the literal past, the 'fact' of history, that shape us, but images of the past embodied in language. James has ceased to make that discrimination. (...) We must never cease renewing those images; because once we do, we fossilise. ーBrian Friel 'Translations' (1981)

― Friel フリール

 

(C)まづ人は、生きてありし時の情も、死て神霊となりての情も違う事は有るまじければ、生たるときの情もて、神霊となりての情をはかるべし。

平田篤胤

 

<注>「篤胤のいおうとすることはこういうことである。生存時にに人は当然同族外の人々とも交際し、そこに情的交流も生じる。それと同様なことは、死んで神霊となっているものと生者との間にも考えられるはずだというのである。なぜなら神霊と生者の情と異なるものではないからだと篤胤はいう。神霊と生者の情の共通性をいうその言葉のうちに読みとりうるのは、生者と神霊とが情的につながって、相互に交じり合うような世界にいるという見方であるだろう。「仙境異聞」に見るように、篤胤にとって幽冥界の存在の兆表は、常に身近にたしかめられるものとしてあったし、「仙童寅吉」のような存在にとっては幽冥界との往来さえ可能であると考えられていたのである。篤胤の救済願望が幽世を「本ツ世」としてとらえながら、その幽世は精神界として現世に対立するものではなく、むしろ生前の生活圏の周辺にある、現世に親しいものとして彼にえがかれてあるのである。」(子安、平田篤胤の世界、ペリカン社2001年)

  • 平田篤胤キリスト教の救済の論理を、かれなりに受容していたといいます。以下に示す文はまさしくキリスト教の救済論の投影であることは、篤胤自身が「外国籍に謂うが如く」と認めている通りで、大変興味深くおもいます。

  • 「現世の富、また幸あるも、真の福に非ず。真は殃の種なるが多かり。(其は富かつ幸あるが故に、罪を造て、幽世に入て罰を受ればなり。)現世の貧また幸なきも、真の殃にあらず、真の福(ききはひ)の種なるが多かり。(そは貧かつ幸なきが故に、罪を造らず徳行を強め、幽世に入て、その賞を受けばなり)・・・抑々徳行に苦しめる者、幽世に入ては、永く大神の御賞(みめぐみ)を賜はり用ㇶらる。是を真の福といふ。

    抑々此世は、吾人の善悪を試み定め賜はむ為に、しばらく生(あれ)しめ給へつ寓世(かりのよ)にて、幽世ぞ吾人の本ツ世なるえお、然る故義(ことのこころ)をば弁へずして、仮の幸を好み、永く真の殃を取ることを知ざる此世にある間は、大かたの人は、百年には過ざるを、幽世に入りては無窮なり。然れば此世は、人の寓ノ世にて、幽世の本ツ世なること決(うつ)なし。此れは信(まこと)に、外国籍(とっくにぶみ)に謂うが如くにぞ有る。」

本多 敬さんの写真