「教育勅語」はうっかり読むとやられてしまうので気をつけなければなりません。。「よいこともかいてある」などとおもわされてやられてしまわないように読むためには何をかんがえておくべきでしょうか?

  • 教育勅語」はうっかり読むとやられてしまうので気をつけなければなりません。「よいこともかいてある」などとおもわされてやられてしまわないように読むためには、最低限度、この儒教的に記されているテクストが前提としている儒教についての知識をある程度もつことが必要だろうと思っています。10,11世紀の宋の時代に朱子学が成立するときに、四書五経経書の体系というものが構成されますが、これが儒教を構成します。そこでは、中国という皇帝の国家的政治的な哲学を記した「大学」が一番重要となります(「論語」ではありません。)。そうして、「教育勅語」は、皇帝が教育・文化を与えるという明代にモデルをみることができます。ただ、諸説あるところですが、明は近代国家という意味の国家とはいえません。そこで、「教育勅語」はヨーロッパを起源にしているのではないかという傾聴すべき意見があります。他方で、宋代・明代が完成し得なかったものを明治国家が完成させたとみることができるとする見解に注目しています。「古代先王の道」の徂徠、「神の道」の宣長は、天皇制のファンダメンタリズムで、近代の国家哲学にまっすぐつながるものだといわれます。「教育勅語」を擁護する者は、それが出来た1890年というコンテクストー西欧植民地化を避けるために天皇を中心とした国家権力の集中ーをかんがえているのかもしれませんが、かれらに譲歩してかりにそうだとしても、しかしそれは1920年代には必要なくなったものだと知るべきです。「教育勅語」とともに天皇のもとでの国家権力の集中を解体すべきでしたが、実際は、戦争を作り出していく「国体」の「教育勅語」を中心に、市民デモクラシーを抑圧していく方向で、満州事変の戦争体制に向かっていくことになったというのが現在の私の理解です。毎日ネオナチのことがいわれますが、ドイツではたしかにネオナチは深刻な問題となっていますが、裁判によって戦前のNazisとの関係が一応断ち切れています。これは安倍とか日本会議が戦前の形のままに出てくるのと大きな違いです。丸山真男のファンには申し訳ないのですが、かれは民主主義を理念化するのはよかったのですが、ファシズムすら理念型をこしらえてしまうから、「日本のファシズムはドイツとちがって、いつはじまったかだれがはじめたかわからない」というようなことを言ってしまいました。内なる天皇という心の問題にしてしまいました。しかし日本ファシズムを実行した政治家、軍人、学者、思想家たち、そして、「教育勅語」をつくりそれを国民道徳化、国体化した官僚たちが存在したのです。ファシズトであるこのかれらを見逃してしまうから、「教育勅語」には「よいこともかいてある」とおもうひとがでてくるのではないでしょうか。これを繰り返してはならないとおもいます。

  • これについてご興味のあうかたは、どうぞ、市民大学講座の「仁斎と共に読む論語塾」「江戸思想を読む、国民思想論」(子安宣邦)に気楽にいらっしゃてください。