日常言語と思考の差異化の構造

アイルランドでは、あまり儀礼がなくてほんとうに助かりましたが(とくに外国人にたいしては寛容)、ただ挨拶をかわすことがとても大切なのです。時々、小津映画の人物たちのように単調にみえる挨拶ばかりしているという印象をもつほどでした。それはなぜなのでしょうか?一説には、そういうことは、飢餓の時代の前にはなかったらしいのです。お互いに遠く離れて生活していた農村共同体で、隣人が生きているかどうかを常に確かめる必要があったのでした。ゲール語でなんといったかわかりませんが、飢餓の時代は、How are you ?は、生存にかんする質問だったというふうに考えられます。だが、現在は、How are you ?は挨拶であり、質問を構成しません。ダブリンの道端でこう挨拶されたとき、Not too badと挨拶をかえすところで、詳細に病気のことや借金のことを具体的に喋ると、What happed !? (あなたどうしちゃったの !?) 、と、相手を吃驚させることになるのです。例えば上達している英語を使ってみようとおもう段階で、文法的には正しいが、意味的に間違っているというこの種の「間違い」をおかすことがおきます。この「間違い」は、考えずに「正しい」キャッチボールを行う「母国語」ではおきません。文法論的方法と意味論的とは全く別の視点に立つ方法であり、必ずしも同じ構造にならないということは、「母国」の外で、はじめて自覚化されてくることです。卑近な会話で、驚くべき、人間の根底にある思考の差異化の構造を学ぶのです。(長々と書いてしまいましたが、grammatical but unjustifiedというジョイス文学は、思考の差異化を問題提起してくるというかね、このことを理解する前提として)