神話の論理と脱神話的意味

  • 神話の論理と脱神話的意味

  • 古代のやさしい踊り子たちは、共同体とおのれの黒い雲から逃れて踊り歌った。しかし魂の憩う庭園にはいるとき、太陽の馬鹿に子をうまされる。灰色の岩山の老人たちが、古い書物たちが、怒り狂わずにいられるだろか?でも、幻想が幻想を生むなどと言うな。軽蔑ならば、支配するために、神話を作り出すやつらを軽蔑しよう!それにしても、神話というのは、支配側の作り物語にとって都合の悪い固有名を痕跡として残してしまう。それはなぜか?近代の神話学みたいにノモスとカオスの弁証法というそれ自身秩序の作り話となっている知の権力に囚われてしまうと、だが論理的のいかなる作り話からも自立して、共同体にとって、ほかならない、初めて経験したことー抵抗ーを記憶していくという神話のもつ不可避的な脱神話的意味を見失うのではないだろうか。ワグナーが書いたワルハラ城を焼き払う抵抗は、神々が全く知らなかった一回だけ起きた経験というか、ブリュンヒルデという名の前に存在しなかった事件性である。