ゴダール「映画史」ーパレスチナ問題の切り口

  • 人が望遠鏡や望遠カメラでもってものを見る場合を考えよう。レンズが眼の代用であるかぎり、「見る」という機能において眼で見るとレンズで見るとでは変わりない。それと同様に、映像を配置するとき、「書く」(フランス語のcompositionは、「作文する」と「構成」するの意がある)という表現機能における文字配置ということでは変わりはないはずである。「書く」(「構成する」)という運動をとらえるとき、言葉と映像との間にはもはや区別はない。ゴダールはここに留まらない。ここから、<いかにパレスチナイスラエルとが互いに共存できるか>と、パレスチナ問題の切り口として倫理的に再構成していこうとしたのである。論争を呼んだ過剰な、「映画史」のクライマックスでは、どちらが言葉でどちらが映像であるかはわからないが、「イスラエル」と「イシュマエル」のモンタージュが呈示されることになった。(アブラハムの息子「イシュマエル」はアラブ人の遠祖とされている。これは何を意味しているか?2010年代からの無理な読み解きになるかもしれないが、いえることは、80年代以降のゴダールの芸術至上主義の傾斜が批判されたけれど、かれはほんとうにそれほど芸術至上主義だったのだろうか?解決するためには、もし一方が民族概念をもちだせば、他方も民族概念をもって対抗しようとするのだから、これを避けるために、普遍的な市民概念に依るべきと呼びかけていたのではなかったかと私は読んでいる)

自動代替テキストはありません。