「直線的文字(エクリチュール)の終焉は...」 - ジャック・デリダ「グラマトロジーについて」(1967)をよみなおす

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  • 「直線的文字(エクリチュール)の終焉は...」
    ジャック・デリダ「グラマトロジーについて」(1967)

    二十世紀精神史の渡辺先生の語り口を思い出してしまうのだけれど、多様性へ行く1960年代は、普遍主義批判の時代であった。デリダのこの一文を読めばよくわかる。

    「直線」とは、その特権がいかなるものであれ、一つの特殊なモデルを表現するにすぎない。このモデルはモデルとなった(devenue modèle) のであって、モデルとしては依然として接近不可能である。(La <ligne> ne représente qu'un modèle particulier, quel que soit privilège, Ce modèle est devenue modèle et il reste, en tant que modèle, inaccessible )

    問題は、ここから、70年代・80年代を通じて、多としての(複数形で書かれた)普遍主義へと発展していくのはなぜかである。パレスチナ問題の存在を無視できないだろう。今日の東アジアの問題と無関係ではないが、民族主義と<対抗>民族主義特異点に絡みとられてしまってはどうしようもなく解決できなくなるので、市民が介入する普遍主義の要請が出てきた。サイードを読み直すとき、ポスト構造主義と市民の思想を折衷させていくのか―両方のよいところを活かすという意味でーという理論的な取り組みが続けられている。和平のためにいかに市民が介入するか?たとえば、バレンボイムは二つのシナリオが必要だと言っている。東アジアでも同じではないか。思想性をもって、歴史修正主義に転向していく運動を展開できるかにかかっているとおもう。

     

    参考

     「直線的文字(エクリチュール)の終焉は、まさしく書物の終焉である。たとえ、新たな文章表現(エクチュール)ー文学的であろうと理論的であろうとー、がどうこうにか包摂され得るのは、今日でもなお書物という形式においてではあるとしても。しかしながら、問題なのはこれまでに記述されなかった文章表現(エクチュール)を書物という包装に委ねることではなく、結局のところ、すでに書物の行(直線)間に書かれていたことを読み取ることである。其れゆえわれわれは、行(直線)なしで書き始めることによって、また過去の文章表現(エクリチュール)を空間の別の組織化にしたがって読み直す。読解の問題が今日学の前面を占めているとすれば、それは文章表現(エクリチュール)の二つの時代間のこの宙ぶらりんな状態による。われわれは、別な風に書き始めるがゆえに、別な風に読み直さなければならないのだ。一世紀以上のあいだ、哲学、科学、文学に関してこの不安定さが認められるが、それらのあらゆる変動は、徐々に直線的なモデルを破壊する衝撃として解釈されなければならない。このモデルは語り的(エピック、叙亊的、epique)モデルだと言おう。」(足立訳)

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