漢字論とはなにか No. 3 漢字仮名交じり文を称える、 「漢字」と「漢字でないもの」との間で 

  • 漢字仮名交じり文を称える、「漢字」と「漢字でないもの」との間で 

 

宣長が行った「古事記」の読みは、平安時代の奈良の言葉に依っているとみられていますが、私の想像の中では、あのお喋りからは夜の海の散歩のような言い表せない拡散を感じてますが、平仮名が五反田スターバックスに来たギャルたちを借りて喋っています。「万葉集」のうたを平仮名で読んだときの感覚は、(女性である必要がありませんが)、このギャル的お喋りと比べられるのかもしれません。万葉仮名(上代に日本語を表記するために漢字の音を借用して用いられた文字のこと)を見ると、夏の日にくつろいでいた家の外に出たときの溢れる光に一瞬殺戮されるような距離を感じます。

古事記」の「天照大御神」というのは、抽象的な距離だけれどそれだからこそ考えることを可能にする距離といえるかもしれません。他方で、「伊弉冉」(イザナミ)とか「伊邪那岐」(イザナギ)という日本の神々の名の痕跡からは、言い表せないような親しみがあったとしても、それらの音が、恐らくはシャーマニズム的に神々を称えた声でしょうが、何を意味していたのかさっぱりわかりません(宗教学や民俗学は自分たちの推論のために推論しているだけです。)哲学的に考えると、そもそも古代の声というのは、考えるようには書かれてはいない文字ということですね。

漢字の受容から1500年ですか、漢字遺伝子というものがあって、これが現在のわれわれを利用して、漢字が自らを読んだり書いたりするのかしら?漢字と、(漢字から作り出された)仮名文字とのバランス、「漢字」と「漢字でないもの」との間のバランスに生きていますが、このバランスが崩れてきたと感じるその喪失感を自らのために書き記すのもやはり漢字だろうと思うのです。声は喪失を知りません。それは喪失の意味を考えることができないだけなのに、声は自らに永遠性を賦与してしまいがちです。これをもっと観念的に考える必要があるとおもっています。仮名交じり文として構成されている漢字は、漢字的なものを排除する、永遠性に安住するそういう平仮名的独立のナショナリズムから自立しているし、また同時に、起源性に正当な起源を与えるような漢字の帝国からも自立している、むしろ他者の言語に<成る>という可能性をもった、<徴は至る所に>というか、無理に一つに統合しない過程そのものであるとおもっていますよ