思想史をたたえる

  • 思想史をたたえる

  • 思想史は、先行するものを問いて、絶えず距離を書きなおす過程です。思想史は同時に二つの方向をもっています。外の思考とこれと方向の反対向きの思考です。この両者の間に、終わりなき循環があるでしょう。たとえば、現在における、外の思考から、「教え」と「教育」の差異を可視化したいとします。これと同時に、思考の基盤を形作るその内に向かって、江戸時代における「学びー原初性ー祀らないこと」と「教えー起源ー祀ること」の言説的差異が発見されてくるのです。そして、後者の「教えー起源ー祀ること」から距離の線をひかなければならないのは、明治大正の領域を超えて、昭和前期の領域だということ。(ただし昭和前期の自らを正当化する過去の読み直しがおきてくるとき、不可避的にそこに近世が自己認識する"あるがままの"近世とのズレが生じます。)これは何を意味するのかというと、領域の地層として思想史の空間をイメージしてみます。すると、思想史は運動なのに、それを無理に連続的に統合しようすると、破裂ー偶然にみえる無数の亀裂ーが存在してくるということになるということですかね