シェークスピアとブレヒトからの問いーオペラを介して

シェークスピアブレヒトからの問いーオペラを介して

‪17世紀にシェークスピアは愛の不可能性が暴力によることを初めて見抜いたとおもうのですね。愛というものが自らを示したのは「オセロー」からなのです。愛は17世紀の前には存在することがなかったのです。さて200年前にロッシニー二のオペラは、その暴力は植民地主義の近代によることを示したのであり、それで十分だったわけですが、今日、(舞台のスクリーンに投射される)ブレヒトの詩を参照せずしてオペラ「オセロ」をみることができなくなったわけです。いかに矛盾を導入していくか。一方で、どんな境界線もそこに属していないというか、(ポンペイの相対する二つの山のように)われわれ観客と舞台の間の周密に満たされた空間(オーケストラの音で構成されている)があり、他方で境界線が属していないからこそ「間」というのは常に開かれているというのです。これが矛盾です。そして「オセロ」ではこの矛盾を超えて、舞台奥に向かって映像たちが投射されますー内戦を喚起する戦車たちの映像、海の難民たちの映像、クローズアップされた人々のシルエットの映像。舞台に意味を与えようとするこれらによって、舞台から自立した思考の空間で、われわれは自身の視線を意識するようになったとき、愛の不可能性と暴力の問題がわれわれにとって究極の問題であることが自覚されてきます。暴力は19世紀ナショナリズムに戻ろうと一生懸命になっている現在のわれわれの視線からしか現れないという問題をブレヒトの詩は真っ直ぐに突きつけてくる‬のであります。