「近代」とは何か?

「近代」とは何か?

モノが主催する中世思弁哲学から最初に決別したのが、カントであった。彼は自らの批判哲学に経験知を導入して中世思弁哲学を解体したとき、そこで発見されたのが先験的ー経験的二重体の人間であった。後に続く、ヘーゲルマルクスの課題とは、このカントの<理念性>の語を<精神><労働>の語に置き変えて、再びモノが主宰する思弁の哲学を近代的に再構成することにあった。ここから、人の「学び」(仁斎)でしか一致しないにもかかわらず、無理にモノで統合しようとするから分裂が起きてしまうという近代が始まるのである。つまり近代という時代は統合が分裂をもたらした時代なのである。厄介なことに、この時代はあたかも分裂があったから統合しなければならないという隠蔽の身振りとジェスチャーをもつ。(これは近代植民地主義がこの知の空間に対応する。統治するから分裂がおきたのであり、逆ではない。) さて思想史は分裂としての近代が現代へと継承されることを証言する。例えば19世紀言説空間の機能・葛藤・意味作用と、規範・規則・体系との間の分裂は、20世紀言説空間の意識と記号間の関係と、無意識と数学体系との間の分裂に継承されたのである。端的に言って、19世紀と20世紀の統合精神は、17世紀・18世紀が知らなかったものだ。最初に指摘したように、17世紀の近世の思想は、人の学びを介さずして、独立した形でモノによる統合を推し進めるという自己完結した体制を考えることがなかったのである、生物学と経済学と文学・神話のようには、そして精神分析文化人類学のようには。エンゲルスが言う意味で「物資が思考する」というとき、それは近代に起源をもつ思考で、近代が自らの姿を映した「古代」の開始を宣言しようとする言葉であったのである。唯物史観が帰結する正反対の位置から、相補的に?ナショナリズムが訴えるときそれは近代が生み出した言説なのだー"諸君が立つその大地を掘り起こしていけば必ず民族が統合された古代国家を発見できる"。「近代」というのは、完全である自らの正しさを形式的に証明する起源を起源を探し続けなければならない。「近代」は唯一オリジナルなものを、精神分析が意識の下に埋もれている無意識に「父」を探すように、また人類学がトーテムポールに「抽象数学が定位するヨーロッパ」を探すように、永遠にさがすのである。問題はいつそれが終わるのかということである。(「近代」というのは、完全である自らの正しさを形式的に証明する起源を探し続けなければならないが、「価値法則論」の「労働」(起源)に起源性(正しさのこだわり)を与える体系もそういう「近代」である。価格が価値の体系に保証される、または価値は本質が現れるように自ずと実現するという理論に、民主的介入の要請が出てこない。)あst