カラバッジオを描いた映画、舞踏

‪ 照明家の方から「光でものを照らしてみたい」という言葉を聞きます。カラバッジオストラーロも、先ず光で照らす、そのとき誰かによる説明は要らないという感じですね。なんというか、理性の言葉が覆い尽くす前に、見えるものから見えないものを直に示すというか...自然光を重んじるわれわれゴダール派からすると、ストラーロが「暗殺の森」(ベルトリッチ)でやってみせた映像美などは許されないものですけれど、ここだけの話ですが、理性それ自身を否定するファシズムが純粋な理性的なものからしか現れれてこないというロマン主義のアイロニのテーマをそれなりに表現していますよね〜〜‬

たしかにデレクジャーマンのほうは、演劇的構成ということもあり事実を伝えるという感じではありませんでしたね。ジャーマンは実験的ビデオ作品を制作してきた、どちらかというと、アーチストですが、なんというか、そもそも絵画をその空間的本質を保ちながら時間発展していくナラティブの映画(ドラマ)で扱うことは、ゴダール「パッション」が先行していましたが、ほとんどなかったのですね。この問題といっしょに、いかにカラバッジオにアプローチするかという問題提起があったとおもいます。ちなみに、もちろんカラバッジオは他の画家たちと共に知られてはいましたが、かれの中のone of them で、この点についてローマ側は何と言うかわかりませんが、レンブラントやベラスケスと並ぶほどの重要な仕事をしたというカラバッジオの発見は、論争を呼ぶ形で大きな予算で彼の作品を集め始めた70年代のイギリス美術館に負うといわれます。主役の俳優もカラバッジオについて独自にかなり研究しなければならなかったという、まだ彼について十分にわからないことが多いなかでの思い切った制作だったようです。コンパクトでむしろ静かな作品という印象をもちますが、実験精神をもったジャーマンだから作れたのかもしれません。

‪冒頭にカラバッジオの絵画作品を呈示した意味を考えながら大変興味深く見ました。フォーサイスがこのように絵画を利用して(会場の入り口に置かれたものでしたが)、単なる舞台美術としてではなく、絵画を介して、演劇とバレーを結びつけてみるという試みをやっていたのを思い出しました。イラク戦争とそのプロパガンダに抗議したその作品をロンドンでみました。

‪バレーがいかに絵画と関わるのかという問題について、フォーサイスの例でかんがえてみたのですが、その作品はこういうものでした。西側の国際ジャーナリストが、アラブ系の母の「(今日反戦の集会で)自分の息子が逮捕された」と訴える言葉を翻訳してタイプするために、「息子が逮捕された」という彼女の曖昧な言い方、文法の間違いとかを指摘したり、あなたは受難のマリアのようだと言ったりするのですが(会場の入り口に掲げられていたのはマリアの絵です)、これに対してこの母はどうして自分が伝える内容とは違うことを記録するのかと激しく抗議します。なんども行われるこの抗議は受け入れらず、ダンサーは母が絶望しきって狂っていく様子を表現しました。それを見た自分の考えを適切にお伝えできているかわかりまんが、思うに、現代バレーが絵画にたいしていかなる関係をとるかという問題について、バレーは、古典絵画の(ジャンルとか)知識で隙間なく詰まった決まりきった答えを終わらせるために、十分に見えていなかったために見逃されてきた問いを開くために、絵画を読ませているのだろうと考えました。と同時に、ここでフォーサイスは、報道をいかに読むのかと問いかけたのでした。あらかじめ決まり切った答えに答えるための質問を繰り返すしかないというか、そういうジャーナリズムーとくにイラク戦争のプロパガンダに巻き込まれた報道ーにたいする批判を展開してみせたのだとおもいます。日本ジャーナリズムは記者たちの現場からの報告などはよくやっていると感じときも多々あるのですが(現場に行けばの話ですが)、それらを評価する編集が全然ダメですね。今日ジャーナリズムに足りないものがあるとしたら、敢えて言うと、それはバレーです。‬