カントとハイデガー

ヘーゲルマルクスはカントの後に、精神と労働の語彙で語られるモノの思弁哲学を再構成した。これを批判する二つの知がある。その一つは、博識と経験知と理念の「カントへ帰れ」「私は市民として話す」だ。フーコの方向だね。もう一つの知は、私の不十分な理解だけれど、ハイデガーの存在者(モノ)からの差異化ではないだろうか。存在の中からその内部に沿って世界との終わりなき「対話」をいう。読めないテクストとしての世界、というデリダの方向といえるかな。