思想の自立について

思想の自立がしてもそこで市民が自立しなければ何にもならない。テクストが自立しても話す主体が存在しなければ意味がない。幸徳秋水大杉栄小田実の役割を誰が引き受けるのか?

思想の自立性というか、それは現象学から始まることなのだと思う。そのとき方向づけを保つことが大切で、エクリチュールと結びつけば、父(文法性とか国家性)からの自立を獲得する課題をもつ。だが書記性から切り離してはいけないのに、専ら声とだけ結びつけると、父から独立したつもりで内部の領域で再び父(国家)を作り出してしまうナショナルなものを呼び出すことに。

(フランス革命のときのように独立についての強力な共和主義の原理を構築しているわけでもないし、また現代は当時のようにナショナリズムの方向と平等の方向とが必ずしも一致しているわけでもない)