私は嘘を言う

運動が痕跡も無くなるほど消滅しきってしまうのはどうして生じるのだろうか?それは、運動を説明する<真理を極める>から<真理を極め尽くす>へと固有なものへのこだわりに絡み取られた暴力に、魂と命の一切を委ねることから生じるのではないか。とすれば、<真理を極める>に方向づけを与えることが要請されるだろう。問題は、それは再び、起源をもとめる真理であり得るだろうかということである。これは書記的に考えることによって解決できるだろうか。もうひとつの解決は、<真理>を再定義するやり方である。古代ギリシャは敢えて、<真理を言う>を、<私は嘘を言う>として再定義したみたと考えてみる。パラドックスによって、意味作用の中心から自立していくことが可能かもしれない。そこからいま、<私は話す>ー真理であるか真理でないかそのことに依存することがない次元でというか...。そうして物語や神話に、見るほかにないという辻褄の合わないが隠さずにちゃんと答えを書いてある痕跡が残ることになるのかどうか正直私もわからないが、今のところほかに適当な考えが思いつかないのである
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