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アポロンとデイオニュソス

対立項でないとすれば、アポロンは本当にそれほどアポロンか?デイオニュソスも本当にそれほどデイオニュソスか?ツアラトウストラはこの補完項でもないならば無関係のアートへ行く

アポロンはほんとうにそれほどアポロンであったかという問いは私には大切です。一方、デイオニュソスですが、常軌を逸した風変わりなものというぐらいでは、その根底に秩序ーアポロン的?ーを読み取る植民地主義者は安心してしまうのだというようなことをアイルランドの批評家はオスカーワイルドを引きながら強調しています。植民地主義者がほんとうに恐れるのは、植民地主義者が存在しなくとも現住民たちはやっていけるのだということを示す、用意周到にできた計画を作る能力だとワイルドはどうも考えていたといわれます(例えばアイルランド人のジョイス「ユリシーズ」において示された1日の無意識を無限の密度で書くとか、それはウルフを辟易とさせた800頁に及ぶものでしたが、だれも読んだとは言えないという意味で支配されない長さです)、ある意味でその破壊性はアポロン的なものに依るといえます、と同時に、創造的であるゆえにデイニュソスです。やはり、アポロンとデイニュソスは、切り離してはいけないし、またどちらかの一方に無理に統合もできない、それが私の見方であります。 現代アイルランド演劇は「風変わりなだけの破壊性」を越えようとする課題をもつのですけれど、「風変わりだけの破壊性」でもかまわないだろうと私もおもっています。ここでは、「対立項にも補完項にもならない在り様」(中島氏)についてご指摘なさったことにはげまされます。「対立項にも補完項にもならないあり様」を、「独立にも自立にもならない在り様」として考えています。(関係の対立の問題はいかに他から独立するかという問題ですし、補完の問題はいかに他に依拠しながら自立するかという問題としてとらえていますから。) そうすると、それは、<国内亡命の在り様>ではないと気がつきはじめています。ニーチェは、多分デイオニソスも、そしてツァラトゥストラも、隠遁した国内亡命でした。(外国に亡命するときは母国からの独立。しかし国内に亡命の場所を求めるときは独立ではない。隠遁しているというのは隠遁させてもらっているという意味で(国家から)それほど自立してはいないが、それでも時代と国と対等とおもっている。) 対立項でもなく補完項でもないというのは、何か日本には無いと思ったりします。それは国内亡命の観念がないというか、そういう亡命をしたら「おまえは逃げるのか」となるらしいですからね。 敢えてそれを名指すとしたら、「無ー関係」の倫理ということではないでしょうか。 もしどうしても名指すとしたら、やはりそれは「デイオニユソス的な」といわれるものなのだろうかと布団の中で思い巡らしました。ヨーロッパ人の頭で考えると「一致」するが、アジア人として考えるときのズレも大切にしてみようとおもうので、思想史から探しますと、「デイオニュソス的な」は、「無ー関係」を説いた老荘思想のなかにありそうにおもえますが、布団の中で思い巡らしているからそういうふうに行き着くのかもしれませんが