嘘のナレーション

問題となってくる‪「嘘のナレーション」は、「和平」とか「和解」が成り立ったと公に告げられるときですね。例えば、「銃の政治が終わった」という内容と正反対のことが起きている場合です。ハリウッド映画は常にこういう語りをもっています。公に告げられるナレーションは中立的ではあり得ないことを学ぶ必要があります。「嘘のナレーション」は歴史修正主義のヴァリエーションとおもいますが、すでに大逆事件に見出すことができるかどうか検討中です。幸徳はヨーロッパの反権威的懐疑精神のアナーキーズムと同じように、徹底的に観念的でした。ボルシェビキの問題を考えるときに、根本的にフランス革命におけるアナーキーズムの方向と国家主義の方向を考えたのです。ところが明治の元勲のなかでも右翼的な者が生き残って影響力を及びしていたときに国家権力が書いた作り物語を、「嘘のナレーション」と私は呼びたいのです。厄介なことに、この「嘘のナレーション」に沿ってそのままアナーキズムを英雄伝の如く物語的に再定義してしまう左翼作家たちがでてくることになりました。(「『大正』を読み直す」で、かれらの「嘘のナレーション」を流通させてしまったという可能性のことが検討されています。)「嘘のナレーション」は、帝国主義日本が完成するときに、満州事変のための統制を隠蔽することによって「大正デモクラシー」という言葉を生み出していくことになりました。