デリダ

だけれどね、哲学者のデリダならば「アメリカの全体をみたい」と言うかしらね?哲学者を主張するならば、哲学者にとって、「全体」という観念はそう簡単に語りえないでしょう。譲歩して、全体が存在しても存在していなくともだね、反復しない。選挙後に新しく何が言われ始めようとしているのかみようよ

「全体をみる」という言い方は哲学的である。全体はそれほど全体か?全体は分割できるか、できないとしたらなぜか?と、思考が展開する。だが「アメリカの全体」と言っているのは気持ち悪いんだ。それは、「アメリカのこころ」という固有性を指示しているように思われる。だとしたら、思考が展開しない