言説

人々が集まるのは、単純に、法が力によってしか保たれない事実を、言論の不在を公に示したいからです。二度目の間違いが起きたら、敗北の事実は事実でしょうけれど、だからといって、行いに意味がなかったということではないでしょう。沈黙を過大評価できません。問題となってくるのは、物理的に相手に同じことが通用しないときに、新しくなにを言うかではないでしょうか。言説のたたかいも行い、この行いの方向性に沿って「他の考えかた」を展開できるかということにかかっているとおもっています