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分類できないもの

デュラス「インディアン・ソング」(1973)を読む

アーレントは「人間の条件」(1958)を書くためには、どうしても「全体主義の起源」を書く必要があったのでしょうね。そこで、Solitude(対話する自己自身をもつ)とLoneliness(大勢の他人の中で孤立していて自己自身をもっていないから至高の一者を渇望してしまう)の区別を知ることが、全体主義の成り立ちを知るために必要であると諭じることになったのですね。SolitudeとLoneliness、この両者は、人間において互いに切り離すことができない関係。だからこそファシズムが終わることなくかくも繰り返えしあらわれてくるようにみえるのですね。(民衆の教育が高くなりおのずと価値観が多元化すればファシズム(一元的価値への盲目的従属)は起きない、と、トッドがいうようにはね...。) 自己自身との対話という切り口でみていくと、歴史的に、西欧の精神が自己自身との対話を失うオリエンタリズムの言説の意味を見逃すわけにはいきません。そもそも西欧というものの成り立ちのうちにイスラム世界の排除があります。後期ルネッサンスのラファイエロの「アテネの学堂」、アラブの思想家の痕跡が殆ど消されていることは1987年のサイードが指摘した通りですが、ここに、ファシズムの、他者を自己の中から自己の内部に沿ってとらえるという表象の起源があったのではないかとわたしは考えています。そしてデュラスの1937年を舞台にした映画「インディアン・ソング」(1973)のなかで描かれていた、「ラホールからきた副領事」に体現されていたクールな理性のLoneliness、あの根無し草のどうしようもなくナルシスティクな叫び声のことを思いかえしているところです。作家はで映画で、映画自身すなわち映画をみる大衆の欲望(暴力)を表現したのですが、それだけでなく、記憶の中の植民地主義の現場からファシズムの光と影をみていたと思います

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