‪‪「弁名」ノート‬ No.2 (私の文学的フットノート)

‪‪「弁名」ノート‬ No.2 (私の文学的フットノート) 映画のなかの会話のような思考実験。たとえば、鬼神が、「鬼神」という名の前に私(鬼神)は何であったかを問うとしたら、問われたこの私は何と答えたらいいのか?これは‬思考する必要がある問いかけである、だとして、起源に遡って考えていくかもしれない。だけれど、名の前に、そこには、思考がなかったかもしれないのだ。書記言語が不在の起源を考えることに意味がない。それならば、思考(解釈)を可能にさせてくれたというような、思考(解釈)に先行した体制を考えよう。書記言語的原初を考えること、それは意味がある。そうして、名が思考に先行する、と、原初の命名行為を問うことから始まるのである。「名」から学ぶこと。共同体の場合、社会体系におけるその名に付与されている意味を考えることが、「名」による「教え」だとみなさる。そこから、「君子」や「臣」のあるべきあり方を問うて、「正名」すなわち名を正すことがいわれてくると子安宣邦氏は説明する。前で、命名行為(聖人によるによる命名)は制作行為とされた。ここでは、「物の名」が正されないと民は「その所を得ず」といわれる。この点について、再び子安氏の訳と評釈に戻ってこれを読むと、「いま徂徠は『名を正す』ことを、聖人による名づけという原初の命名行為に遡って、すなわち物がその名を負った原初に遡ってしようとするのである。」‬とある。