徂徠

‪子安氏によると、「これを読むと、『‬物のあはれをしる心』を『事にふれてうごく心』だとする本居宣長の説は「楽記」の翻訳ではないかと思われてくる。宣長はそこで、「感字は字書にも動也と註し、感傷感慨などともいひて、すべて何事にても、事にふれて心のうごく事也」(石上私淑言)‬といっている。

‪「楽は音の由りて生じるところなり。その本は人心の物に感じて動くに在り。このゆえにその哀心感じて動けば、その声かすれてもって殺(そ)ぐ。このゆえにその哀心を感じて動けば、その声のびやかにしてもって緩し。その喜心感じてうごけば、その声発(ひら)きをもって散(はな)たれる。その怒心感じてうごけば、そぼ声粗くしてはげし。その敬心感じてうごけば、その声直くしてもって廉(つつ)しむ。その愛心に感じてうごけば、その声和(なごや)きをもって柔らかなり。六つのものは性に非ざるなり。物に感じてのちに動くなり。この故に先王はこれを感じる(感じうごかす)所以のものを慎む。故に礼をもってその志を道びき、楽はもってその声を和らぎ、政をもってその行いを一つにし、刑はもってその姦(みだ)れを防ぐ。礼楽刑政、そぼ極一なり。民心を同じくして治道に出ずる所以なり」(礼記、「楽記」)‬

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