徂徠

なぜ、‪「徂徠学講義『弁名』を読む」(子安宣邦氏)を読むのか?

考えてみたいとおもっていることは、徂徠の『弁名』が、仁斎が読んだ「論語」に対して、徂徠のもう一つの「論語」、もう一つの「論語」史、として読めるのかどうかである。徂徠の探求しようとするもう一つの「論語」のために、再び一つの原理(人間の内部的な心性論的言語からなる道徳論的体系)から説明することは不可能であろう。「弁名」がもう一つの「論語」であるためには、既成儒家の知の枠組みからの差異化が必要である。「徂徠学において六経は、伝統儒学孔子の教えという道徳論的体系をそこから導き出す経書、すなわち四書に対置される。『論語孟子・大学・中庸』の四書が孔子による『仁義礼智』という言語的理念性をもった教えの原典であるのに対して、『詩・書・礼・楽・易・春秋』の六経とは、先王の『礼楽刑政』という事物的具体性をもった教えの原典である」という。そうして、「徂徠が常にいう『先王の道は礼楽のみ』は、伝統儒家における『孔子の道は仁義のみ』に対置される」ことになったと指摘されている。既成儒家との批判的抗争のことは繰り返し強調されていて、「論語塾」四年目(五年だっけな?)にしてこのことをできるだけ正確に確かめたいと思うようになってきた。また、徂徠の思想がヘーゲル哲学と比較されていることによって、解体日本思想史というか、そういう批判精神の意義についてよく考えるときにきたのではないかとおもっている。仁斎の朱子学形而上学的存在論を批判した思想(「道の外に人無し、人の外に道なし」)と、カントの人間の有限性に基づいて理念性の哲学を構成した思想とが互いに似ているとして、仁斎とカントは同時代の思想家であるとみなそうと子安氏は提唱している。問題となってくるのは、人または人間における理念性として仁斎とカントが指示していたものが、徂徠の思想において、あえて再び、モノにおける思弁性として展開されることになったことである。ここからはじめて全体性への視点を政治化することができたというか、とにかくそうして共同体を構成する集団的存在としての人間を発見していくという思想史の重要な展開があったのである。(この点について子安氏の記述を引用しておこう。「この徂徠学の外部的な視座は、すでに見たように、人間の内部的な心性論的言語からなる道徳論的体系としての既成儒教との批判的抗争を通じて徂徠に構成されたものである。この徂徠の外部的な視座とともに、はじめて人間は「群」すなわち共同体を構成する集団的存在として見出されたのである。もちろん徂徠においてこの人間の社会的総体への視点は、為政者に己の知識の立場を同一化させることによって獲得されたものである。したがってこの社会的総体への視点は、政治的である。だがこの政治性を、徂徠学のイデオロギー性としてだけ解すべきではない。むしろ社会的総体への全体的視点がもつ本質的な政治性として解すべきだろう。それはヘーゲル哲学における全体性への視点がもつ政治性と同様である。」)‬

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