本居宣長

‪漢字で表記された漢文テキストの「古事記」は「漢文のふり」で読まれてきたが、その「古事記」を宣長は日本(やまと)の「古語のふり」で読むべきだと言う。称えられた原エクリチュールが指示した死後は、「きたなく悪しき黄泉の国」であった。「神道に安心なし」という。宣長の言説的性格は、武士権力の縁辺に位置していた儒家知識人の言説と類似していて、ただ「下たる者」に託して述べられた国学的知識人の言説の性格をもっていた。そこで「宣長の安心論もまた、人びとの救いへの希求に答える救済論的議論」(子安氏)ではなかった。人はどこからきてどこへ行くのかといったような知ることができないことについて儒仏が執拗に教え説くと非難した。宣長の安心へのいささかも情緒的斟酌をもたない知の批判的言説。しかし話は単純ではない。宣長の「遺言書」によると、彼は世のしきたりに従って葬儀は家の菩提寺である樹敬寺において仏式で行われることを指示しながら、自分の遺骸は生前自ら定めた山室の「本居宣長之奥津」に前夜内密に葬るように指示していた。宣長は死後の己の住処を松坂の市外山室山に見いだしたときの思いを歌に読んでいる。‬

‪山室に千年(ちとせ)の春のやどせしめて風にしられぬ花をこそ見め‬

‪今よりははかなき身とはなげかじよ千代のすみかをもとめえつれば‬

‪安心の声というか、この歌に宣長の偽らざる死後観があるとしたのは平田篤胤であったという。昨年松坂にきて二つの墓を見学したとき、江戸思想というのは、こんな風に一つに包摂されないような、脱出線を含む地図として存在していたのではなかったかと私は思いを巡らした‬のである。写真は、かれの菩提寺である樹敬寺の敷地。私の想像の中では、葬儀のとき、死後鍵がかかっているかの如くだれもひとりも入ってこれない部屋の中から、「宣長」は脱出していたのである。