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‪‪‪「弁名」ノート‬ No. 9. (私の文学的フットノート)

‪‪‪「弁名」ノート‬ No. 9. (私の文学的フットノート)

どの時代も、多様性と同一性は切り離すことができないのだろう。全体としてみると、儒者たちの江戸思想は同一性よりも経験的多様性を重んじていったという。江戸思想はいかに原初的テクストを読むのか?関係は同一であり得ない。多様性は、テクストの書記的読みについて考えはじめたし、あるいは、古代言語が存在したと仮定して差異を探求していくことになった。思想闘争と言説のたたかいはあったが、まだ排除の近代はない。問題となってくるのは、解体されていった朱子学形而上学的同一性というのは新しく再びどういう形で現われたかである。それは多様性と一緒にどのような相互作用をもって展開していくのだろうか。この疑問に対して、私が正解に理解しているかわからないが、考えるヒントが与えられた。

‪「論語塾」のときにメモした大変興味深い話題を箇条書き的だけれど一応整理しておこうとおもう。‪本質的平等性は日本思想の重要な問題である。仏教はこれをもっている。しかし市民の平等性をいう主張は、石田梅岩の例外を除いて、近世思想に基本的になかった。同一性よりも差異性(気質の性)が重んじられた。仁斎は多様性としての経験知、人間知を考えた。その仁斎は性から善へみる見方において人間の共通性をとらえようとしていた。徂徠は仁斎のように配慮がない。人材登用における多様性の重要性を唱えた。ところでかれが考えるように人間は個性的存在とすれば、問題となってくるのは、いかに集団を形成するかである。そこで徂徠の「聖人」が出てくるという。「先王は聖人である。それゆえ道を聖人の道といい、また聖人の道をというのである。およそ君子として為政にかかわるものは この道に由ることを勤めとする。」「制作者」とかれが呼んだものは、江戸幕府の将軍に委ねられる。普遍主義的に展開される徂徠の思考方法は、人間社会の構成論とその社会哲学というべきものである。