17世紀

近世というのは、たしかにもはや中世ではないが、まだ近代も始まったばかりで、喩えると、何かこの入り口感は、私の一番好きな時間帯、白紙の本の如きスクーンの記憶がかろうじて残る映画上映の最初の十分ほどの所であろうか。ほかならない、この時期帯は、経験的多様性と物語的分節化の方へ引きこまれる<前>であり、言葉に包摂されない光と音が織りなす共通性が展開する<後>に位置している。(もうそれで十分だ、コーヒーを飲むために席を立ちたいとおもう。) さて17世紀に現れてくる東西思想は、外部にある神(天)への信、まだ十分に理念化してはおらず定義化に躊躇する語り口で、愛(仁)を詩的に語る。17世紀は注釈を通じて自らを書く。注釈される短い言葉よりもラデイカルに短い宇宙に轟く稲妻のような言葉に究極的なことを託すことがある。そこで意味されていることは、二千年とか三千年かかって語られてきた言葉よりも遥かに長い内容をもつ