女性すら女性に成ることが要請され、男性すら男性に成ることが要請された

‪日本は中世がなかったとする見方が面白いと思うのは、「源氏物語」と「徒然草」とが古代天皇制の同時代にあったと再構成できるというかね、プロに読まれるとヤバイような素人の私の考えだけれど。紫式部は当時男性が読んでいた「日本書記」も読んでいた変な女性だったという。これは何を意味するのか?女性は女性的点と男性的点を結合させることができる。だがこの結合の事実を指摘するだけでは、足りない。新しく古代は「源氏物語」からはじまったというそのその画期的な出来事。それが切り開いた多様性の方向性を十分に説明したい。物語を書くために平仮名に依拠することによって、女性すら女性に成ることが要請されるのだし、そのときあますところなく男性が女性に成るということがともなうのである。他方で、漢字仮名混合体で書いた吉田兼好の場合、男性は男性的な点と女性的点を結合させることができた。(「平家物語」は漢字で書いた物語だった。) 再び新しく古代は「徒然草」からはじまったというこの随筆がもつ多様性の方向とは何か?物語を書く為に漢字に依拠しなければならない。男性すら男性に成ることが要請されたし、そこであますところなく女性が男性に成るということがともなうのである。(おそらく謡曲の仮名を読むナレーションにおいて「女性」が「男性」に成ったのではあるまいか。) 最後に、思想史空間を横断していく古代の線は、超越性が定位する古代的点から自立した運動をもっている。武士は貴族と寺社の超越性を嫌った (本能寺を焼いてしまうほどだ。‪) 古代の死は内部に生じると感じられるが、その終わりは外部から来た。近代において、超越性の古代的点と、反超越性の近代的点との同時性が存在する。‬‪‪特に伊藤仁斎の近世において、「人」は「人」であるために要請される「学」の理念性が問われるとき、多様性の方向が経験知の方に舵を取りないしながら、男性と男性の、または女性と女性の関係が「人」を中心とした対自的的・対他的関係において縮約されることになるだろうととりあえず整理しておこう。まだ絡みとられてやまない超越性の痕跡が、彼の反超越性の思想闘争に、新たな方向性をもとうとしている漢字仮名混合体にある。‬難しいのは、こうした伝統を「脱アジア」のラジカルに切断していく明治の近代のあり方である。