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「弁名」ノート‬ No. 20 ( 私の文学的フットノート)

「弁名」ノート‬ No. 20 ( 私の文学的フットノート)

子安氏の‪評釈によると、道が大であるとは、道が人間社会の全体としての存立にかかわる概念だからである。この人間社会の全体と等価の大きさを持つのは聖人だけだとされる。道とともに大である聖人に対して、人びと一般は小なる存在である。人はそれぞれの生まれつきの性質によって規定される特殊的存在である。さらに子安氏の説明によると、特殊的な存在とは、それ自体に全体性に至る契機をもっていない存在だということである。ここで間違いを恐れずに言うと、私の理解では、特殊性と全体性は切り離してはいけない。特殊性は全体性とは異なるから、特殊性は全体性に置き換えることはできない (近代主義者が同一化の可能性を読み取るようには...) さてこのことを前提にした上で、問題となってくるのは、いかに特殊的存在を人間社会の全体性に連なり得るかである。徂徠によれば、先王の道と教えによってである。「人はその教えにしたがい、学ぶことによって、自らを社会的存在たらしめるのである。それゆえ人びとがその特性に応じて、それぞれが一個の人材としての自己形成が可能なように、聖人は徳目のカタログを用意したと徂徠は言うのである。聖人が『徳の名をたてる』とはそういうことである。」(子安氏) ‬