黒澤明「乱」

武士は自らを表現する文化がなかったという。だから武士は貴族・僧侶の文化を借りたといわれる。彼は自らを代表するために代表されなければならなかったというわけだ。だが貴族・僧侶の滅びの美意識を借りて成功したか?久々に、黒澤明「乱」を観たのは、映画のなかになにか考えるヒントでもあるかもしれないと思ったから。公開当時は綺麗な映画と思うだけでまさかこんな思想史的なことをかんがえなかったのだけれど、現在では武士が武士であることはどういうことかと黒澤を通して観察してみるようになっている。武士はカエデの貴族的なもの(個人的なもの)に翻弄されている。またヒデトラとツルマルの出会いをみると武士は僧侶的なもの(超越的なもの)によって調子が狂うのである。

黒澤「乱」は、「蜘蛛巣城」冒頭の彷徨いの霧と違って、議論から始まる。この映画は、武満の音楽を以って、ラストのツルマルまで議論が続く。赦しはある。だが城跡の亡霊が消滅して定位できる平和を誓う言葉がみえない。領土問題は戦争によってしか解決されないということのほかは、確実なものはないようにみえてしまう