応仁の乱?

見向きもしなかったこんな本がベストセラーとして読まれているらしいが、その理由は何だろうかね?1467年をいい表す「人の世むなし応仁の乱」という語呂合わせすら知らないほどで、情けないことに、事実的知識もないので容易に入り込めない。申し訳ないが拾い読みだし、これでは何を言いたいのか掴めないままだが、考えなくてはならないと思ったのは、「やはり、応仁の乱の"入り口"と"出口"だけでなく"中身"の検証は欠かせない。その際、没落する貴族は不平不満を並べ立て、勃興する一般人民は乱世を歓迎した、といったステレオタイプの歴史像に陥ってはならない。」という部分である。それならば、ステレオタイプのために隠蔽されてきた事実とは何だろうかと推測してみる。それほど古代王権は没落してはいなかったという命題は、結論先にありきの憶測といわれるだろう。ただ下部構造で説明し尽くすことができないような古代の存続のあり方を考える必要がある。私のようなものでも、関心をもって読めるところも僅かだがある。「経覚は応仁三年四月二十六日にも、政覚に対し『学問に励まないのは、もってのほかである』と説教している」という記録についての言及に関心がいった。この説教も、応仁の乱の'中身'を構成するということだろうか?そうならば、戦国乱世の序曲といわれる時代にあっても、それほど僧侶たちはなお学問にアイデンテイテイを委ねていたということか。(序曲をきいていた危機感から、学問のアイデンテイテイが強調されたということも?) 武士は学問に自分たちのアイデンテイテイを見出すのは、なんとかわたしが理解しているのは17世紀・18世紀以降においてである。それに先行する形で、文化権力というか、「学問」は時代の担い手に支配を与えるということを歴史は教えるのか?応仁の乱を契機に、京都の僧侶たちは儒学などの文献をもって四国や九州の地方に避難していった。この事実をもって、文字通りの学問の脱領土化の先行形態というか、古代王権を終わらせたといえるのかなどと勝手に想像している。