伊藤浩子「未知への逸脱のために」"日々の痕跡"<出会いの約束>"を読む

1

「傾いた道しるべ」が「瞳」を覆うように、「くろかみ」は言葉を覆うとおもわれるときでも、中から現れてこない言葉はないのではないだろうか。「くろかみ」の隙間たちからみえてくる「一切」はそれほど「まっすぐ」ではないのは、平面が曲面を覆うことができないのと同じだろう。思想はそれが依拠する詩の痕跡を覆うことができない。おそらくこの覆いきれないものを「乳房」が養っていると読める。隠蔽できない日々の逸脱は、ほかならない、この「予感」からはじまるという。‬

2

「影」が「影」であるために約束される「とおいひと日」。だけれど「とおい日々」は、「風音」が「潮騒」に重なるというその出会いのときを待たなければならない。それは無限に遠い。それぐらい遠いのは恐らく他の「影」からくる無限遠点しかない。ただ無限遠点において、思想の平面は詩の曲面を覆うことが起きるかもしれない。「未知への逸脱のために」は、ベンヤミンラカンデリダ、ヴィットゲンシュタイン、思想家ごとのゆらぎをもった特殊性で成り立つ流れをもっている。これと平行に、詩で綴られた自然ごとの特殊性、肉体ごとの特殊性の流れがある。他の思想との関係でベンヤミンベンヤミンでなくなってしまう思想の流れは、詩の言葉において、再び同一性の系列を呼び出してしまうことは不可能というものだ。思想の流れと詩の流れの間には、ものの曖昧な同一性である「樹々のゆらぎ」しかないのは、「風音」と「潮騒」の間と同じである、と、そういうことを思索した。

3

‪「裸体」というのは、「時間」と「軽さ」という矛盾した形で統一しているのだろうか、「たったひとつの夜」として?そして、矛盾における統一というものは、「感傷」と「熱情」の傍らで媒介なく再びどうしようもなく深まっていく夜のように、ある欲求の形をあらわしている。わたしはそう読んだ。‬

4

‪「わたし」が「わたし」の名を得ているのは「あなた」によってだということである。一見こうした場所は単純なものだ、とフーコが言うように、ここで語られる「現象」は純粋な相互性からなっている。「あなた」は砕け散った「岩石の一部」「一滴の雨粒」を見つめ、これらの諸々の部分の傍らで産み出される全体の中の「わたし」は「あなた」を凝視する。「世界の失われた半身として」の「わたし」をいう他者のこの「わたし」のとらえかたが問われている。そのとき、だれが「出立」するというのか、外部で再び出会うために。詩は告げるようだ、それは「ひとりの他者」だろうと。‬

5

‪「未知への逸脱のために」は、まわりにある既存の対象と形の使用に依る。「文字となったその人のまわり」という余白から何でも語らせることができるのは、自然の配置は奥深く無限だからということか。「まぶた」が書くとき、「耳朶」と「舌」と「唇」と「指先」が羽ばたくのをきく。「泳ぐ」とあるから、海のなかで羽ばたくと想像するわたしに、「余白の海」を超えていく‬と告げられる。

6

目が覚めたというか、‪「ならばいつまでもそこでそうして...」という声に揺り動かされた。「文字になったその人の周り」でいわれる「そのひと」とは母だったのか、と、こんな決定的なことを読み取るのが絶望的におそかった。まぶたで触れるー触れられる「雪」とは身体か?だれの身体のことか?それはわからない。「母」と「わたし」の間におけるものとしての「出会いの約束」をいう詩人のこの「出会いの約束」のとらえ方は両義的である。「母じゃない」というこの「出会い」は置き換えられない距離を含む。「わたしはここよ」の意味は何か?「ここ」とはどこか?これはだれがだれに向かって呼びかける言葉なのだろうのか?詩人の言葉をその通りに読み進めていくしかない。‬

‪7

いきなり、「けっしてふれることのできないりょういき」があると告げられる。86字の平仮名と1字の漢字(「視」)を使った詩を読む前に、ここで、平仮名の「りょういき」が漢字の「りょういき」にとる関係というものを考えてみた。その関係は、分割可能な同質の空間が分割不可能な異質の運動にとる関係として現れる。詩の言葉に即していうと、「おまえのからだのずっとおくのほう」が「おまえじしんのよどみ」にとる関係として現れるのではあるまいか。そうして詩は、「あけがた」が「つめたいくらがり」であることが漢字からする平仮名に対する必然性を喚起する。言いかえれば、運動が滑らかな空間に介入しなければいけないということか。「視える」は「うまれかわろうともがく」、視えなければならない、というふうに。‬視線は「出会いの約束」が孕む多様性を暗示するものである。

‪「無数の喪失の渦中」のことが語られる。それは形だけとなったから「影さえも遺さない」というのだろうか?実体なき、置換の不完全さと過去との断絶を読む。別の詩のタイトルとなっている、MOTHER MACHINE という言葉ほど、「型」と「空無」の間の非連続性をあらわす言葉はないとおもう。‬‪

「花束」としての言葉の贈与について考えたことは、言葉が崩壊し、誰かから誰かへの、その存在に関わる約束とする贈与でなければ、崩壊するのは人間的な出会いの全体であるという点である。‬

‪「おかあさん、とあえて今はよびかけてみる」という。「水玉にわんぴもそれと揃いのミュールも今はもうどこにも見つからないのに」。と、「亡父の影を追い求めた娘」に対するあざけりは、詩人の声の復活の準備だろう。各段が肉体の名を含んでいる詩で、詩人の声の復活は、人間の肉体全体の芸術におけるものとしての回復を意味する。「雷」から「黒髪」を守ること。境界を作らないこと、分断しないこと。「伝説よりもきよらか」なものを保つこと。外的接触から肉体を守ることは常に抑圧社会の特徴であったから、回復した肉体は復活した共同体のイメージとなる。‬

8

‪「出会いの約束」の最後は、冒頭で示されたベンヤミンの言葉とその反時代的な精神へ還る。夜の「子どもが大人になるのを待つ時間」について語られる。「夢の中で 彼らの背は伸びる 胸が膨らむ」という。ところで「未知への逸脱のために」の出版のあとに、伊藤浩子氏のフェースブックに投稿した写真を見たときのこと、高々と積み上げた本の中にベンジャミンの名もみえて、なにかバベルの塔を連想した。バベルの塔は古代人のコスモポリタン的建築精神をあらわす開かれた知の塔だった。塔の崩壊のエピソードは、同時に、依拠すべきものをなにか完全過ぎるものに置くことを戒めている。このバベルの塔の崩壊の徴は至るところにある。「父母の隠された祈りのかたわら」で「寝返りをうった」というとき、それは遠い日々の痕跡、詩人が詩人であるために要請される反時代的なジェスチャーと身振りではないだろうか。「季節の雨が窓をうつ」ように、微かな声、おだやかな、か細い声が驚くべきこと、大きなことを語ろうとしている。‬