「弁名」ノート‬ No. 26 ( 私の文学的フットノート)

「弁名」ノート‬ No. 26 ( 私の文学的フットノート)

(子安訳) 「人の性質はそれぞれに殊なるとはいえ、また人に知愚・賢不肖といった違いがあっても、みな相互に愛情をもって養育し、補助し合って成し遂げていく心と、運用営為しる能力とは一様にもっている。それゆえ統治は君主の力に頼り、養育は人民の力に頼り、農工商買(しょうこ)がみな相互に頼り合って生活をなすのである。群としての集団を離れ、無人の郷で独立して生活することができないのは、それがただ人間の性質だからである。君主とは群としての人間集団の統率者である。君主においてその統率を可能にするものは、仁に非ずして何があるだろうか。」

ここでは君主と人間の集団性が言及されている。‪「君なるものは群なり」といわれるところの、人間の集団性とその統率物の存在との分かち難い関係の意味は何か。ここで子安氏は荀子を引く。「君とは何ぞ。曰く、能く群するなり。能く群のするとは何ぞや。曰く、善く人を生養するなり」。「君なるものは民の原(みなもと)なり。原の清めば則ち流れも清み、原の濁れば則ち流れも濁る」。仁斎が『孟子』を読み直すことで、「聖人の道」をめぐる仁斎の言説体系を構成することに対抗的に応じている、と指摘している。 ‬近世の言語は絶えず注釈によって自身を顧みる。テキストの絶対的先在による。"il faut le préable absolu du texte‬"(Foucault) 世界が語と標識の混在で成り立っているとしたら、‪注釈によるのでなければいかに語るのか?仁斎と徂徠が注釈で行なっていることは、言説をつくることである。仁斎が孟子を語るように、徂徠は荀子を語るのである。孟子は仁斎によって初めて語られるのであるが、ずっと昔から語られてきたかのように語りだされる。これとは内容的に反対の方向から、荀子は徂徠によって初めて語られるのであるが、ずっと昔から語られてきたかのように語りだされるのである。