「弁名」ノート‬ No. 27 ( 私の文学的フットノート)

「弁名」ノート‬ No. 27a ( 私の文学的フットノート)

‪(子安訳) 後世の儒者は聖人の道を知らない。したがって仁もまた知らない。そこから後世儒者の仁説が生まれる。彼らは「仁とは愛の理、心の徳である」といい、また「人欲をきれいに除けば、天理があまねく行きわたる」といい、さらにまた「専言の仁があり、偏言の仁がある」いう。こうしたとらえ方は仏教老荘の考えに根ざしている。それゆえ後儒の学は理を主とし、心を主とするのである、また『中庸』や『孟子』を誤読して、仁を性の概念とする。だが性とはひとごとに異なるゆえ、彼らはその異なりを気質のせいにして、理においては聖人と異らず、同一だといったりする。‬

‪彼らがいう意はこうである。仁者はたしか人を愛するのだが、愛とは情であり、情として動く以前の静かな心にあっては愛という情動をみることはない、と。しかし未発の愛としての理を、人は生まれるとともに天より享(う)けて心に具えている。それが仁である。仁が心徳であるとは、そのことをいうのであると。また彼らはこうもいう。人の生まれ初めの純粋さは聖人と異なるところはない。ただ気質と人欲にとらわれると、仁本来十全さを失ってしまう。したがって学問が成り、人欲を消尽し、気質を変化させるに及んではじめて、人の行うところ仁であらざるはない境地にいたるのだと。またこうもいうのである。天地の道は生々してやまざるものである。その天地の徳を人に享けたものが仁である。それゆえ天理流行というのはただ生々の意を表しているのであると。また彼らの考えによると、仁は心の全徳である。ゆえに仁は儀礼智信を兼ね備えている。これが専言の仁である。仁が儀礼智信に対するものとして、仁儀礼智信といわれるとき、それは偏言の仁であると。‬

• 徂徠は後世的仁説の批判を書いている。ここでは、「仁とは愛の理」という言語が問題とされている。

‪訳文を読めばわかるように、宋代の程子や朱子たち、宋代以降の中国や日本のの儒者たちは、古代先王のみちこそが聖人の道であることを知らないから、したがって礼楽形政としての道を、天下安民の徳・仁によって聖人が制作したものであることができない。そこからこの後世の儒者たちは先王の道から離れて仁を、彼らの観念の言語をもって語っていくことになったという。徂徠の言及から、宋学あるいは朱子の本体論的な哲学的言語と本来主義的な倫理学的な言語の姿がみえてくる。ここでは、「本体論」と「本来性」の違いに注意しながら、体用的二元論をもって、また性理学的視点とその概念をもって語られてきた宋学あるいは朱子学ー東アジアの漢字的世界を支配していったーのエッセンスを理解する必要がある。子安氏の評釈によると、「本体論というのは、宇宙や人間の根拠にかかわる議論である。人間という存在と行為が何に基礎付けられ、根拠づけられているのかという議論である。さらに宋学は禅の本体主義も己の言葉で語るようになる。人は現実世界において、その本来性を失って堕落するその危険性のなかに絶えずある。人の本来性とは、天に賦与された人間の道徳的本性である。それは道徳的存在としての人間を基礎付ける根拠(理)でみある。現実の世界における人間は情動的契機によってこの本来性を失うようにたえず脅びやかされているのだ。ここから本来性の維持と回復とが、「復初」の言葉とともに説かれるのだ。宋学あるいは朱子学は、この本体論的な哲学的な言語と本来主義的な倫理学的な言語とをもって中国だけでなく、東アジアの漢字的世界を支配していったということができる。日本人は朱子学の受容とともにこうした言語を自分のものにしていったのである。徂徠は後世儒家のこうした本体論的な言説から「仁」を解き放とうとしている」(子安氏)。‬ 言語に定位する人間が有限であり、言葉の極限に人が到達するのは彼自身の中心ではなく、彼らを規定する縁である。理の内部に位置づけられないとする「聖人の道」を指示できるのは、外部の領域からであると徂徠は考えるのである。‬