だれが博物学を語ったのか?

‪大博物学の時代の想像で書いた動植物は教育上良くないという理由で大英博物館にもあまり展示されていないらしいのですが、これに怒っていた人がいたが、博物学の真面目さというか不真面目さというべきか、ヤバさみたいなものをあえていえば、あり得ない土地にあり得ない花が咲いている世界を注釈学者みたうにそのままに受け入れて称えてしまうというか。(博物学の大いなる想像は、今日では存在しない島に所有権を主張するという類のナショナルな想像の共同体の側に堕落した感がある。あり得ない土地に自己同一化するという...。)

あり得ない土地にあり得ない花が咲くという博物学の想像力を擁護するとすれば、想像の言語の極限において、花というのはどこの土地にも帰属するが、どの土地の部分になり得ないということを教える知だろうか。そういう時代と知があったんだと証言する。博物学は、大航海時代からはじまる、全知全能でなければならない、聖書に全く記されない動植物が次々と発見されてくるという無秩序の時代に、一見もっともらしく整然と整理分類した知の形で、トンデモナイ無秩序を以って対抗したということを物語っていた、と、20世紀からはそうみえる、そのようにみたい。だれが博物学を語ったのか?バブル時代はこの博物学の時代に共感したとおもう。のです。実際にこの時代は色々なタイプの男性が出てきました。だけれどバブル時代はそれほど無秩序ではなかったので、商品世界が定位する秩序の退屈極まりない方向に、プチブル的に何でもかんでも比較することで何かを語ったつもりになっていたそんな欲望に絡みとられていってしまったのかな。