『童子問』とは何か

‪『童子問』とはなにか‬

‪中世の形而上学存在論が終焉した時代に成り立ってくる、近代(近世)における経験知の舞台から、復古の宇宙論的教説が批判されることになった。『童子問』では、伊藤仁斎が自らを童子(初学者)の立場において、過去の自分と対話を行う。『童子問』を読むとき、その舞台に存続していた形而上学に対する、最後のそして最初の思想闘争の観がある。伊藤仁斎にとって重要なのは、深層でない平易なものである。存在論の「均く」という言い方を繰り返す同一性を指示する言説の正反対の方向から、あるいはそれを切断した形で、深層でない平易なものにおいては同じものはなく差異しかないのだから、思想における深層でない平易なものの重要な意義が説かれる。「理」の内部になんでもかんでも位置づけることの無理が言われてくることになった。と、同時に、「理」の外部から、依拠できるもの(信)が要請されてくることになった。ここから、『論語』を注釈したべつの本で、「宇宙第一の書」が何であるかが指示されてくる。この過剰な言い方は宗教とは無関係だし形而上学の復活というふうにも理解できない。どういう経緯でこの言葉が取り除かれることになったのかは諸説あるが、徳川政権の批判が政治批判を意味しそれが絶対にゆるされないようにな時代にあって、伊藤仁斎が道徳論からするギリギリの言葉だったかもしれないと21世紀の『論語塾』のあいだで推測されている。人類が依拠できる、時代と同じ大きさをもった思想の書物を、「宇宙第一の書」と命名したのではあるまいか。‬

(『童子問』の子安先生の講義は明日、飯田橋のRENGOで一時から行なわれます。だれでもいつでも参加自由です。コピー代要)