作品

作品の名に値するようなテーマの存在を説明するのが苦手ですが、何も頼らずに読めるかというとそれはあり得ないという問題がありますね、この問題を考えています。例えば、ヨーロッパ語で書いたヨーロッパの近代を読むときは、それを考えるフレームが必要です。漢字仮名混交文がそのフレーム。だけれどそれで日本語を読んでいるだけなのです。不可避的にギャッが起きてくるのは、ここにおいてですね。自然に読むということはあり得ないと思うのです。依拠するフレームの存在を考えることなく、読む行為はそもそも不可能。思考の限界というこの問題をべつの仕方でかんがてみます。封筒を開いたときそこに読むべき手紙がはいっているなどと言うことは可能でしょうか?封筒を開けるときに、手紙は脱出しているかもしれませんから。それなのに、私しか開けない封筒の内部に私が読む手紙が入っているというふうに考えるのは、言葉のなかに人間が存在していると考えるのと同じくらい無理なんだろうと気がつきはじめました。二つの封筒を使っているのですが、中の手紙が自ら封筒に成ることで脱出していることをうまくあらわしていますかね?‬まだまだかー